満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 1
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所
  【 序 言 】

 今までに多くの人がシベリヤ抑留の記録を残している。そのどれも悲惨、苦難の記録であるが、こんな体験をさせられたのも戦争があったからである。 戦争が罪悪の最たるものであると言うことに些かの異論も無い。私も終戦後、二十三年十二月復員までの三年有余を、祖国から何千キロか離れたシベリヤの地で過ごした一人である。辛い事、悲しい事、惨めな事、苦しい事、それらの事は沢山有った。私はそれらの事は措いて、その悲惨な暮らしの中にもあった、明るさ、楽しさ、笑い、喜びなどを感じたひと駒、ひと駒を、拾い上げて綴ってみようと思い立った。
 勿論何の記録も有るでない、五十年前の消えかけた記憶を掘り起こしながら辿るのであるから、日時の不正確、取違え思い込みなどで記述の後先は有ると思うがそれはご寛恕願いたい。
 [後日同じ収容所に居た延岡市出身の、喜多健二氏の著書に接する機会があり、著者の
了解を得て、日時、地名等を参考にした部分も有る]。

 【 終 戦 】 

 終戦を知ったのは、旧満州の奉天(現在の瀋陽)近くの新民屯という村落で、丁度、第十一遊撃隊という、所謂艇身斬り込み隊を編成中であった。鉄道、発電所、道路、橋梁などの破壊、爆破。
 司令部、通信設備等、中枢施設への潜入、襲撃などの特殊教育を受けた。将校、下士官百名ほどが基幹要員となって、五百人ほどの現地召集兵とで一個大隊を編成予定で、既に司令部からは召集令状が発令され、八月十六日には入隊予定であった。兵器、弾薬、被服、糧秣の受領も完了、入隊兵の到着を待つばかりであった。
 ところが思いも寄らぬ終戦。若し入隊兵が来たら、即時召集解除、各自帰郷させよとの上層部からの達示が有った。その際には、被服、糧秣は自由に持ち帰らせて良いとの指示が有った。
 何しろ六百人が優に一カ月は保てるだけの物資。それは膨大な量で、接収していた小学校の校庭に野積みされていた。終戦を知らずに応召してきた人、知ってはいたがとても信じられず確かめに来た人と様々。三百人くらいは来た。

 【召集解除】

 達示通りに、各人持てるだけの被服、食料を与えて帰らせることにした。
さてそうなると、人間の欲とは恐ろしいもの。勝手に持って帰って良いと言うので、誰も彼も着れるだけ着込む、持てるだけの物は持つ。如何に満州とは言え八月は未だ暑さの真っ最中。それにも拘らず冬物まで着込むのだからその苦しさは並大抵ではない。毛布など二枚も三枚も畳んで背負う。無理もない、内地ほどにはなかったにせよ満州といえども物資の欠乏は甚だしく、殊に砂糖などは、余程でなければ手に入らないような状況だったのだから・・・。


 【荷物強奪】

 そんな風にして除隊。これで無事帰宅出来たら良かったのだが、世の中そう旨くは行かない。既にその時には、日本軍の敗戦を知った満州国軍の蜂起、中共軍の進入、朝鮮居留民は大韓民国の旗を立てての暴動化、奉天市内などは大混乱に陥っていた。
 各地方の住民も既に暴徒と化していた。 その中に持ち切れぬほどの荷物を持った日本人が出ていったのだから唯で済むわけが無い。忽ち荷物は強奪され、身ぐるみ剥がれて放り出される。それはまだ良い方、中には抵抗して、大事な命を落とした者、重傷を負った者、拉致されてどうなったか判らない人も多数居たと言う。
 これは略奪に遭い、パンツ一枚で、ほうほうの態で逃げ帰って救いを求めてきた人達の話だった。逃げ帰った人達はもう二度と部隊を離れる勇気もなく、ずっと行動を共にすることになった。

 【逃亡計画】

 さあこんな事態になったらお先真っ暗。私は仲の良かった経理下士官二人と相談、三人で逃亡の計画を立てた。私の入隊前住んでいた鞍山(あんざん){昭和製鋼所という製鉄会社が在った}があまり遠くなく、其処までなら三人行動を共にすれば何とか行き着けるだろうと言う自信があった。[友達の一人は満州語が頗る堪能だった]。
 鞍山まで行けば、兄、姉も居るし、知人も沢山居るので何とかなると考えた。さて、そうなると何よりも金。何とかして逃走資金を各人五千円くらいは準備せねばと申し合わせた。然しその頃の下士官の俸給は三十円程度。一口に五千円と言うが、容易な額ではない。
 
 【逃亡資金】(人間万事塞翁が馬)

 そこで我々は、野積みしてある物資を持ち出して金に換えることにした。それが別に悪い事だなどとは別に思わなかった。
 この物資をこのまま置いても、どうせ暴徒化した住民に持ち去られるのだし、「金の作れるのはその人の才覚だ」くらいにしか思わなかった。
 太車(ターチョ)と呼ぶ大型の二輪車に、米、砂糖、味噌、醤油、被服類などを積み、馬に挽かせ、各人拳銃を腰に、小銃には弾丸を込め完全武装で村へ向かった。現地でも物資の窮乏が甚だしいので、すぐ人が集まって来た。
 満州語の達者な彼が交渉に当たったが、足許を見透かされて買い叩かれる。是が非でも金に換えたい我々、結局それだけの品物で千五百円。
 各人の分け前は五百円。目標の五千円には程遠い。後に聞いた話では、馬三頭を五千円で売った者も居たとか、そんなことなら挽かせて行った馬も車ごと売れば良かったと口惜しがったものだった。

 【物資を換金】

 又軽機関銃を持ち出して、一万円で売り払った豪の者も居たとのことだった。 私も医務室に保管してあった薬品類に目を着けた。
 今は市中ではとても手に入らない、サルバルサン(梅毒治療薬、所謂606号)スルファミン剤(化膿防止、創傷治療剤)モルヒネ・コカイン・パピナール等(麻酔剤)などを相当量保管していた。それらの薬品を鞄に詰め、拳銃二挺を左右の腰につけ奉天まで出掛けた。正に命懸けだった。何軒かの病院、薬店を回り、持って行った薬品を全部売り払い、千五百円ほどの金を手にした。
 それ以後も何かと売り払い、結局各人三千円ほどの資金が出来た。


 【逃亡を保留】

 ところがその内に、何処か一カ所に集結して、軍隊を解散、日本に帰るようになると言う噂が流れた。そうなると逃亡の計画も揺らぎ始めた。 三人で話し合って一先ず見合わせることにした。逃亡を決行して果たして成功しただろうか?
 逃亡していれば、その後に遭遇した抑留という事実は無かった訳だが、果たして何方が良かったのだろうか?。『人間万事塞翁が馬』今でも何方が良かったと言う結論は持たない。


 【集結。日本に帰れる!。】

   ○昭和20年8月15日 終戦「新民屯」
   ○仝 年   8月20日頃 奉天工業大学に移駐、武装解除。
   ○仝 年   8月29日 奉天北陵東北大学に移動。ソ連軍に収容される。
   ○仝 年   9月15日 奉天出発・皇姑屯駅にて乗車。
   ○仝 年  10月13日 黒河到着。
   ○仝 年  10月17日 ブラゴエシチェンスクに移動。
          10月22日 幕舎生活。出発。
   ○仝 年  11月21日 カラカンダ到着。
   ○仝 年  11月21日 カラカンダ出発。アナール到着。
   ○昭和21年11月 アナールよりジョロンベッドへ。
   ○昭和22年11月 アクモリンスク収容所へ移動。
                自動車・農耕機械センターへ行く。
   ○昭和23年6月 ボゴンバイ 金坑に入る
   ○   仝 年 9月 ジョロンベッドに帰る。
   ○   仝 年11月 5日 帰還。ジョロンベッド出発。
   ○   仝 年11月22日 ナホトカ着。30日 乗船。
   ○   仝 年12月 3日 舞鶴上陸。 8日 復員。
  右の経過日時は喜多氏の著書から引用したものである。
 私の記憶とは日時に少々のずれがあるが、この記録の方が正しいのは間違いないことだが、記述の事柄、内容に余り支障はないので私の記憶通りに書き進めることにする。

  【武装解除】

帰国の為に集結したのは、奉天工業大学、八月も末頃であった。敷地周辺はソ連の戦車、装甲車等で物々しい警戒態勢だった。それまで自衛のために許可されていた小銃、銃剣、拳銃を全部提出を命じられた。

 将校の佩用していた軍刀は勿論、双眼鏡、地図、磁石、カメラ、小型刃物に至る迄全部出すように達せられた。どうせソ連軍に没収されるものならと、学校の井戸に投げ込んだ品物も相当あった。
 中には十人程で組んで、軽機関銃一挺、騎銃五挺を密かに持ち出し、これにに油脂をたっぷりと塗布、桐油紙を厚く巻いて、満鉄沿線の空き地を掘り起こし、地中深く埋めた組もあった。 何の目的だったかははっきりしないが、恐らく隙があったら逃亡しようと考えていたのだろう。言に夜間逃亡を企て、張り巡らされた鉄条網を乗り越えようとして、警戒兵に発見され、制止を聞かず銃撃されたことも三度ほどあった。

  【部隊集結】

集結した部隊は、一個大隊五百人、三個大隊千五百人を一個軍団として編成された。
 更に一個大隊を五個中隊に、一中隊を五小隊に細分し、各隊に夫々隊長を置いた。
 中隊長には元将校、小隊長には元下士官を充てたのであるが、階級章を外してしまうともう一般人と変わりない。と言っても軍歴の長い人は習慣で、○○中尉殿、○○隊長殿とよ部事は中々改まるものではない。軍歴の浅い者こそ直ぐ入隊前に戻って、○○さん、○○君と呼び合えるが、古い連中はそうは行かない。
 相変わらず○○古兵殿、○○班長殿だ。だが言葉と動作、行動は別。以前のような尊敬、遠慮、畏怖等は薄れたことは確か。若し以前のような上官風、古兵風を吹かせようものなら、若い連中が黙っていない。そのことは上級者自身も感じ取っているので言葉遣いまで変わった。

 【新兵の逆ビンタ】

 中にはそれが理解出来なくて、揉め事になることも度々あった。昔のように顎先で使おうとした新兵に反抗され逆ビンタを食った下士官も居た。もっともその新兵は、今で言う暴力団、昔のやくざの若頭と知らなかったから・・・。
 集結地では別に仕事といってある訳でなし、時々何人かの使役を出すくらいで各自自由な時間を過ごしていた。夫々のグループで囲碁、将棋、花札、トランプト花札、トランプ等思い思い。又別の集まりでは、故郷の自慢話など、何しろ全国各地からの寄り合いなので、珍しいお国言葉も飛び出して話は尽きない。とにかく間も無く日本に帰れる、家族に逢えると言う喜びで一杯。唯浮き浮きと日を送った。


  【乗車・ソ満国境迄】

武装解除され、ソ連指揮下に入り、千五百人が一団となり「ニッポンへの帰還」を信じ切って三十五輛程連結の有蓋貨車に詰め込まれ、奉天(皇姑屯駅)をしゅつ発したのが、二十年九月十五日だった。
 皆の顔は晴れ晴れとして、敗戦の暗さなど影もなかった。考えてみると我々の部隊は、直接戦闘に参加したわけでないので、敵に襲撃されたと言うことも無いし、況して戦友などを目の前で死なせたと言う経験も無かったので、それ程痛切に戦争を感じなかったのかも知れない。 一貨車に六十人位乗り込んだように記憶している。
 兎に角、二段装置の寝床、と言っても筵の上に毛布一枚敷いただけ、十分手足を延ばせるだけの余裕は無い。横になると寝返りも儘にならない状態。手足が隣に触れたり、重なったり、寝言、鼾、歯ぎしりと実に賑やかなもの。
  神経の細い人にはとても耐えられないものだっただろう。だがそんな事は問題でなかった。唯永く離れている故郷へ帰れると言う喜びに満ち溢れていたから・・・。


 
 【逃亡者再度編入】

 列車は二、三時間も走ると停車、列車にトイレの設備が無いので用を足す為である。
一斉に下車すると、見渡す限りの大平野に向けて砲列を敷く。
自動小銃(俗称マンドリン)を構えた十数人のソ連警備兵に監視されながら用足しをする。 実に壮観だった。それにしても一般避難民の輸送には、婦女子も居ただろうが、男は兎も角女性は随分困るだろうなと後で話したものだった。
 何しろ監視兵の視界から離れることは許されなかったのだから。この時間を狙って逃走を企てたものもあったらしい。
 現地から応召した者で、ある程度勝手も判り、言葉にも不自由しない者が試みたのだが、全然人家の無い大平原、到底生き延びることは難しい。
 我々より先に通った列車から逃亡したものが三人、我々の部隊に救助を求め、我々の編成に組み込まれたこともあった。


  【食事の心配なし】

 昼間は食事より他に何も仕事が無い。どの貨車も盛んに花札、トランプを使っての賭博が大流行。
 中には元幹部の威厳を保とうとして、見向きもしない人も居たが、そんな人は皆に相手にされないので、そんな人同士で集まって雑談に耽ったり、持っている本に読み耽ったりした。 各人、俸給の何か月分かを纏めて支給されていたし、前記のような方法で各人可なりな現金を所持していた。中には負けが込んで無一文になる者も居たが、食事は一日三度ちゃんと保障されているので何も心配はない。


 【一般人も無事帰れるか】
 
 3km行っては止まり、10km走っては一日停車、丸一日も二日も動かない日もあり、漸くソ満国境の町黒河に着いたのは、約一ヶ月後の10月13日だった。途中で何度も有蓋・無蓋貨車を三十輌も四十輌も繋いだ輸送列車と離合した。
 ある小さな駅でなどは直ぐ隣り合わせの線路にどちらも停車した。南の方へ下る列車は有蓋、無蓋が半々位で無蓋貨車にはぼろぼろの天幕が張ってある。
 そしてその中には日本人が乗っている。老人子供、そして女ばかり。真っ黒に汚れた衣服を身に付けている。老婦人の髪は赤黒く縺れている。
 若い女性は皆丸坊主、一見して男か女か見分けが付かない程、埃と垢で真っ黒な顔をしている。「兵隊さーん」「兵隊さーん」一斉に声が飛んで来た。こちらも皆身をを乗り出す。「兵隊さーん」『おーい、何処へ行くんですか?』「判りませーん!」『何時、何処から来たんですか?』『四日前、北安(ペイアン)から来ました!」お互いについ先日までは考えもしなかった悲惨な境遇に落ち、この上は一日も早く故郷の土が踏たいだけ。
 「兵隊さーん、頑張ってねぇ」『元気でね』「達者でね」『皆も気をつけて下さいよ』「早く日本にかえって下さい」『ご無事で』「左様ならー」『さようなら』お互いに自分たちの苦しみも忘れて励まし合う美しい光景。
 そしてその声を残して北と南に別れて行く。南下したこの人達は一旦、ハルピンか奉天か牡丹江等の大都市に集結して、逐次帰国の途に着くのであるが、それが決して順調に行くとは限らない。

 【駅はごった返し】
 
 それらの事情は、私達が北上の途中の駅で、日本人の駅員(終戦と同時に、日本人と満人との地位が逆転、今迄の駅長も助役も役職を剥奪され、雑役夫として構内の清掃などに就いていた)から聞きもしたし、ハルピンの駅頭でも多数の集団を見かけた。
 8月20日前後だったと思う。私達は五人ほどの集団で武装解除前だったので、各人拳銃を携帯、騎銃二挺にも実弾を込め携行、奉天駅まで行った事があった。
 駅のホームはごった返し、北満の開拓団や、その他の都市からの撤退してきた人々で、殆ど着のみ着のまま、疲労し切った顔でホームに座り込んでいた。
 男の姿は全く見えない。居ても愈の老人、女性と子供だけ、所狭しとの其処比処に屯している。そして何時仕立てられるかも知れない南下の列車を待っているのである。

 【ミルクも無い】

 殊に哀れなのは乳飲み子を抱えた若い母親。勿論ろくな食べ物もないので母乳は出ない。空腹を訴える乳児の泣き声もか細い。
 粉ミルクの缶を持ってはいるが、これを溶かす湯も水も無い。私達が通りかかると、「兵隊さん、ミルクを作るだけでいいですから水を下さい。お願い!」と縋り付いて来た。
 私達は夫々水筒を携行していた。満州では生水は絶対飲めない。隊で沸騰させたものを冷やして水筒に充填するのである。
 「ああ、いいよこれを使いなさい」と水筒二個を差し出した。その母親はぺたりと座り込んで、頭を地面にすりつけんばかりにして「有り難うございます。有り難うございます」と、涙を流しながら何遍も何遍も礼を言っていた。
 その後どうしただろうか?無事に内地に帰り着けただろうかと、その時の連中と話したものだった。 そんな南下する列車と何度すれ違っただろうか。あの人達は朝鮮経由で、私達はウラジオから日本へ、と信じ切って黒竜江を渡った。
つづく