満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 13
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所
 
『続食糧補充・小麦(ピシニッツア)の切り返し』
もう一つの補充食糧は小麦であった。「エルバート」と呼ぶ製粉工場に付属する小麦貯蔵倉庫(スクラート)がその作業場所で、私達の仕事は小麦の切り返しだった。膨大な量の小麦が全部バラ積みで5b程の高さにもなる。発酵を防ぐ為にその上下を切り返すのである。空けてある片方へラパートカ(スコップ)で撥ねて積み直すのである。崩れてくる小麦で腰まで埋まることもある。自分で抜け出せなくて、助けて貰う事も度々であった。だから他に誰も居ない時の作業は危険であった。
この仕事にも役得があった。着てきたシューバー(毛皮の防寒外套)のポケットに小麦を入れて帰るのである。帰る時、一応の検査はあるのだが少々位なら見逃してくれる。余り多量だったら制止して返させられた。この小麦は帰ってから飯盒で煮たり、煎ったたりして食べる。口の中で少しもさもさするが、結構旨かった。最も飽食の現在ではとても食べる気にはならないだろうが・・・。また要領のいい連中は、手に入らないものに売りつけたり、パン・砂糖・煙草と交換したりした。どんな境遇にあっても、要領の良い者は上手く立ち回るものだと思った。
『思い出した二人』
小麦と言えば必ず思い出す人が二人居る。一人はこの抑留記の初めのほうに書いた、食堂で他の人のパンを盗んだ元下士官のTと言う男で、小麦を食べ過ぎて死ぬ様な思いをした事があった。何しろ、茹でただけでそのまま食べるのだから、極めて消化が悪い。口の中で糊状になる迄咀嚼して食べればそんな事も無かっただろうが、彼の事だからゆっくり食べたら、人に盗られるとでも思ったのだろう、丸呑みみたいにして食べた。滅多に手に入らないので思い切り食べて満足した。ところが小麦の表皮には若干の渋があるのでこれが作用して便秘を起こした。食べて三日目の夜、「Tが酷く苦しんでいるから一寸見てくれ」と不寝番に起こされた。言ってみると腹がパンパンに張って七転八倒である。食べた小麦が、腸の中の水分を吸って膨張、発酵したものとすぐ判った。医療所に連れて行き軍医に見てもらった。事の次第を聞いた軍医は笑いながら下剤を飲ませ、浣腸をした。然し出口に、膨張した未消化の儘の小麦が、粒のままこちこちに固まっていて全然効果が無い。とうとうマジャール(ハンガリヤ人)が管理しているバーニヤ
(入浴場)に連れて行き、柄の長いスプーンで裏門から掻き出す始末と相成った。全然消化していない多量の小麦が掻き出された。発酵による気絶しそうな悪臭がバーニヤの外まで流れ、管理者のマジャールが飛んで来て散々文句を言った。こちらは唯々平謝りするより他なかった。本人は処置が終わると腹はぺこんと引っ込み、さっきまでの苦しみは嘘の様に消えた。実に人騒がせな男だ。お陰で睡眠不足と毒ガス中毒で、翌日一日中頭が痛かった。
もう一人と言うのが実に傑作人物である。ある日、小麦を入れた飯盒を提げて、私を尋ねてきた男が居た。その顔を見た私は思わず、アッ!と声を上げそうになった。Kと言う三年前に別れた同年兵のその男には特別な思い出があった。 初年兵として熊本の原隊に入ったのが、昭和十六年二月十日だったが、一週間後には途満、まだ酷寒期のハイラルに着いた。それから一カ月程経った三月も終わりに近い頃、彼が軍隊脱走を試みたのである。大体、知能程度が人より多少劣っているせいもあったが、話は実に誇大妄言、荒唐無稽で、同年兵の間では有名なものだった。彼の曰く「俺の四代前は大名だった」「俺の父はカナダ大使だった」
「俺はアメリカ生まれで、ニューヨークの小学校を卒業した」「兄貴は帝大を首席で卒業、今ロンドンの大使館に居る」「家に帰れば田圃が五十町歩の大地主だ」等々。初めの内はよく法螺を吹くなあと皆は黙って聞いていたが、その内、同じ村から入隊した同級生(他の中隊に所属)の口から、根も葉もない大嘘である事が皆に知れた。ところが彼はその後もそんは事はお構い無しで、相変わらず口から出任せを捲し立てた。皆はそんな話を冷やかしながら聞いたものだった。
その彼が脱走したのである。私達が居たハイラルと言えば、北満有数の酷寒の地。気温は零下四十度にも下がる。脱走した三月では、まだ雪も降るし、気温も零度を上がるような事は無い。
  当日夕食の時には居た彼が夜の点呼の時に居ない。中隊全員で心当たりを捜したが見付からない。官舎に帰っていた中隊長に、当直将校から報告、官舎に帰っていた将校も全員召集、週番司令を通じて聯隊長にも報告。やがて非常呼集がかかって、聯隊全員千二百人{その年の八月、関東軍特別大演習(関特演)で二千人近くに膨れ上がったが、当時はまだ少なかった}が、各中隊毎に捜索隊を編成、ハイラル市内はもとより、人家も無い北満の大平原の雪を踏み分け踏み分け大捜索を開始した。未だ経験したこともない大騒動となった。
この零下十数度の原野に一人で出て行ったら、とても生き延びる事は不可能。凍死するのは必至。況して夜間は狼が群れをなしている。多人数で行けば狼も逃げるが、一人や二人では襲われるのは目に見えている。現に前年の秋、興安嶺の山中で秋季演習の最中、一個分隊が襲われ全員がやられた例があった。朝までの捜索も空しく何の足跡も掴めなかった。翌日も日暮れまで捜索は続けられたが何の成果も無かった。
ところがその夜、十二時も過ぎて、炊事係から中隊の週番に、Kを発見したと言う連絡が入った。彼は炊事倉庫の木炭の中に隠れていたらしい。勿論その倉庫も捜索したのだが、奥の方で炭俵を被り息を殺していたのだった。後の話では、捜索隊の来たのは知っていたとのことだった。夜中になってどうにも空腹に耐えられず、のこのこと炊事場に食べ物を捜しに出て来たところを発見されたものだった。中隊に連れ帰ったが、木炭で顔は真っ黒、誰か見分けの付かぬような汚れ様だった。中隊長も余り叱らなかった。又逃亡されたらと言う思いからであったろう。話を聞いても支離滅裂、てんで辻褄が合わない。わざとそんな風に装ったのかも知れなかったが、中隊長は、日頃の言動と思い合わせて、彼の精神が正常でないと判断。その様に上申したのであろう、特別な処罰はされずに済んだ。その代り以後の休日は外出禁止。常に誰かの目が届くように、常時中隊当番(中隊事務室の直ぐ前の廊下の一隅が定位置の湯沸かし番)に就けられ、演習、教育など一切免除だった。当番になってからも別段以前と変わりなく大法螺を吹いていた。そして皆から『万年当番』と言う有り難い名前で呼ばれ、みんなよくからかいに来たものだたった。然し本人は別にそれを気に掛けている風でもなかった。
Kの前歴が長くなってしまったが、その彼が私に会いに来たのであった。懐かしがって色々と話したが、相変わらず自分の自慢話が大半、うんうんと聞いてやった。三年兵の時転属(私より約二年前)、終戦のどさくさで兵長になったらしかった。後に聞いた同じ隊に居た人の話では、もう五年兵になっていたので最古参、随分勝手放題だったとの事だった。「ボゴンバイ」と言う別のラーゲルに居たのだが、其処でも軍隊当時の様な、異常な行動で散々手を焼かせたとの事だった。戸外作業に行った時、着用していた服と防寒シャツを脱いで、地方人のパンと交換したそうだった。氷点下の戸外で下着のシャツの上に防寒シューバーを直接着て、ぶるぶる震えながらパンを噛っていたと言う。帰ってからそのことが露見営倉に入れられた。營倉に入ってからの行動も滅茶苦茶(とてもここに書けない)、ついに収容所長も精神異常と認めて放免となったとのことだった。
その後何回か遊びに来た彼は、前と変わりなく「大ボラ」こそ吹くが、別に異常と思う程でなく、頻りに昔を懐かしがって同年兵の誰彼の話などした。私達の居た部隊は、私が転属で出てから間も無く、十九年の七月頃比島で全滅したのだが、彼はそれを知らなかったので私の話に随分驚いていた。後で聞いた彼の行動がもし異常を装った演技だとしたら、大した名優だと思ったくらいだった。
然し考えてみると、若しあれが逆の立場で、他国の捕虜があんな風だったら、日本軍当局ならどうしただろうか?恐らく適当に処刑してしまった事だったろう。余り深入りをして付き合える男ではない事は充分承知していたので、一線を引いて応対した。私はその頃別に食べ物に不自由していたわけでも無かったので、貰った小麦も適当に周りの人達に回した。その後私も彼も別の収容所に移ったので、その後の消息は知る由も無い。

 
つづく