満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 14
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所
 
『快適なMTC(エム・ティ・エス)生活。
1947年、入ソして三年目の五月末から約四カ月間、本部から200〓程離れたΜ・Τ・C(エム・ティ・エ)と言う所へ十五人が一グループとして派遣される事
となった。もうこの頃になると、可成り個人の自由も許されて、休日には二三人が組になって、バザールに買物に行くことも有り、中には作業場で知り合った女性に会いに行く者も居た位だった。Μ・Τ・C(エム・ティ・エス)とは、自動車、農耕機械のセンターと言う意味で、大型トラックや大型コンバイン等が、数十台常駐、播種、収穫等の季節になると、各地の農園からの要請に応じて、運転者付きで派遣、収穫、集積、納入などが終われば帰って来て、冬期間に整備などに従事する。夫婦同好のこともあるし、別々の農場に行くことも会った。従ってそれが原因のトラブルも結構有ったらしかった。集落は全部で四十戸ぐらいで、若い男女はほとんど各農場に出向き、留守宅は大抵老人と子供ばかり、従って自家労働力の不足を補う為、我々の派遣を要請したものらしい。どんな基準で選ばれたのかは、本部のやった事なので詳しい事は判らないが、大工、左官、その他なんらかの特技を持った者が選ばれたらしい。五人一グループで長は置かなかったが、四カ月間起居を共にした警備兵のマッキャモフ(ウズベック人)とビッシェロフ(タタール人)が隊長代理みたいなもので、毎日の作業の受領、割り当て、記録、報告まで一切彼等が行なった。四カ月間同じ釜の飯を食ったせいも有ろうが。実に日本人には好意的で、優しく、余程の規則破りでもしない限り叱ると言う様な事はなかった。私は医療所に居た関係で、衛生係兼通訳と言う形で別に作業には出なくて良かった。林と言う専属の炊事係が居たので、衛生的な助言をしたり、炊事の手助けをしたりで毎日を過ごした。我々十七人の居住用に家を一軒与えられた。直ぐ隣にあるストローワヤ(食堂)[一般の人も出入りする]で、朝、昼、晩共に食事する。炊事はそのストローワヤ付属のクッフネ(調理場)でする。
各人は毎朝指示された家に行く。仕事によって単独のこともあり、二三人組のことも有るが、家屋の修理、自家農園の耕作、道路の補修とか、あらゆる作業につく。私と炊事係の林とは、皆が仕事に出た後の部屋の整理整頓、清掃も日課の一つだった。私達も、仕事に行った連中も、留守宅の老人子供と交流が有り、これが捕虜生活だろうかと疑うほどのんびりした楽しい毎日だった。月に一度か二度くらいは、全員纏まって少々離れた所に、臨時の作業に行くこともあったが、このことに就いては後述する。

『ソ連人の捕虜に対しての意識』
こちらは捕虜なのに何故?と理解出来ないと思うので、ソ連の人々が、捕虜と言うものをどんな風に理解していたかに就いて少し書いてみることにする。
【生きて虜囚の辱しめを受けず】とは、古来から武士道として、大和魂として、日本ではいやと言う程叩き込まれてきた観念でした。戦時中では「捕虜」になれば、虐殺される。耳や鼻を削ぎ落とされる、手足を切り落とされる、とかあらゆる残虐な仕打ちを受けると広く言い伝えられたものだった。1829年の捕虜に関するジュネーブ条約などを知っているのは、極く限られた一部の人で、大半の人はその存在さえ知らなかっただろう。だから一般では「捕虜」になるのは死ぬ程恥ずかしい事。恐ろしい事とだけしか思わなかった事でしょう。だからこそ敗戦を知り、捕虜になると知った時、自らの命を絶った人が何人も居た事を私は知っている。ところがソ連に抑留されて実感したのは全く違うものでした。ロシヤ人の上級幹部はどうだったか知る由もないが、一般では「捕虜」と言うものに対してのイメージが我々とは全く違うものでした。第一「捕虜」(ワイエンヌイ・プレンヌイ)と言う言葉を聞かない。戦闘に参加した勇士として「兵士」(サルダート)と呼ぶ。ソ連と言う国は、六十以上の民族の集まりと言われるだけに「人種差別」と言うものがなかった。(内実はロシヤ人だけは、他の民族に対して、或る種の優越感を持っている様に思えたが・・・)。私は可成りの期間、一般地方人と接したが、そんな気配を感じた事は一度もなかった。尤も私の接した人と言うのが、独ソ戦当時、ドイツ軍の占領下で、ドイツ軍に協力したとかの罪で、巻き返したソ連軍に捕らえられ、はるかな地へ流刑になった人が多く、内心はスターリンを、共産国家を恨みに思っていたのかも知れないが・・・。話しても「俺のお祖父さんは日露戦争に行った」とか「広瀬中佐を知っている」とか「日本は柔道が強い」とかで、寧ろ好意を持っている様にさえ感じたものだった。そしてスターリンの政治体制にに就いて、可成り批判的な言葉も屡々聞かされた。然しそれは絶対に他の人に洩らしてはいけないと口止めは忘れなかった。一人でも日本人以外の人が居る時には、絶対にこの事は口にしない。若し他の人に聞かれたら大変なことになる。何しろ、Г・П・У(ゲー・ペー・ウー)[国家秘密警察]の手が何処に伸びているか全く判らない。一般人の中に紛れ込み、普通の人と変わりない生活をしている。一般住民の中、十人に一人はそうだと言われているが、実態は全く不明。このゲー・ペー・ウーなるものは絶大な権力を持っているらしく極端に怖れられていた。警察権・司法権迄持っているらしい。
現に一度だけその厳罰の実情を見た事があった。それはまだ集結前の奉天での出来事だった。或る日三人連れで、市内の某アパートを訪ねた。勿論その時は市内は暴動の起きていた時だったので、各人拳銃には実弾をこめて携行した。そのアパートには、同行した一人の姪御が住んでいた。彼女はまだ二十三、四歳で独身。市内の満蒙デパートに勤めていた(姓が福岡だったのが印象深かったので今だに覚えている)が、これは表向き、実は軍の特務機関に籍を置く、特別工作員で、奉天市内の経済状態の調査、経済攪乱などの任務に就いていた。市内の闇市場などには随分と顔も利くらしく、訪れた時にもその頃では入手不可能とも思える高級ワイン、コーヒー、チョコレート、その他菓子類などふんだんに貯えていて、惜しげもなく振る舞ってくれた。


「何れソ連の軍隊が進入して来るであろうけれども、もう交通が途絶しているので、待避も儘ならない。捕らえられたら軍の工作員と言うことは直ぐ判るので、処罰は免れない。その時の覚悟はちゃんと出来ている。捕まって辱しめを受けるよりは自分でちゃんと鳧はつけます」と、青酸カリの小瓶を出して見せた。実際その後病院の看護婦など婦女子が、屋上から飛び降りたり、服毒したりして何人も自決したと言う話を聞いた。散々飲んだり食べたりして盛り上がっているその時だった。急に表が騒がしくなった。様子を見に行った彼女が帰って来て「何でもソ連の兵隊が、民家に押し入って略奪しているらしい」との事だった。様子を見に四人で表に出た。横の人に話を聞くと入っているのはソ連兵一人で家の中から悲鳴が聞こえたとのことだった。その家は道路の向こう側で、真向かいから右へ三軒目くらいの家だった。誰かがソ連軍の方へ知らせてあるとのことだった。間もなく憲兵(私はゲーペーウーだと思った)が一人やって来た。案内してきた男がその家を指差すと、家の前まで行き中に入らずに、十b程離れて立った。拳銃を抜くと安全装置を解除して再びサックに納め、出てくるのを待ち受けた。それから十分も経った頃、片手に大きな袋を提げ、マンドリン(自動小銃)を肩に掛けたソ連兵が一人出て来た。それを見るとさっきの憲兵はいきなり拳銃を抜き、声も掛けずにその兵隊に向けて、三発続け様に発射した。何を言う間もないその兵隊はその場に膝を突くとそのままばったり倒れた。見ていた私達のほうが驚いた。何一言聞くでなし、通報した人の言葉を信じて本人から何も聞かずに、その場で射殺したのだからとても我々の常識では考えられない。民家からの略奪は、即死罪だと軍令でも出ているのかも知れなかったが、何にしても無茶な話だと思った。軍紀の厳しいのは輸送途中でも何回か見た事があった。上官が兵を怒鳴る時にも直ぐに拳銃に手を掛ける。又叱られている兵隊の方も、どういう理由かは知らないが、パッとマンドリンの銃口を撥ね上げると上官の方に向けたのを見た事があった。その時は何方も発砲こそしなかったが、何とも物騒な事だった。
『食堂の女性達』
話が横道に逸れてしまったが、本筋に還ることにする。
この食堂を取り仕切っているのは「トーリヤ」と言う三十歳そこそこの素晴らしいロシヤ美人だった。我々は単に「マダム」と呼んでいた。その下働きにニィメッツの五十歳くらいの母親と、その娘で「カーチャ」と呼ぶ十二歳の可愛い娘が居た。私と炊事係は、夜間以外は殆どその炊事場か食堂に居たので、自然彼女達とも大の仲良しになった。そして色々と彼女達の身の上話を聞かせて貰った。食堂のハジャイン(主人)はこのマダム夫婦で、純粋なロシヤ人であった。この地には出向を命じられただけのもので、他の人の様に処罰等の意味合いは無いとの事だった。深い事は言わなかったが、内実は、秘密警察関係の人達かも知れないと私には思われた。ドイツ系の母娘はウクライナの方に住んでいたのだが、独ソ戦の煽りを食って、巻き返したソ連軍に捕らえられ、夫はここより更に東、極東に近いシベリヤ送りとなり、娘が幼かったせいであろう辛うじて母娘だけは、一緒に住むことを許されたとの話だった。食堂の主人の方は、一般住民と同じく、何カ月間かはコルホーズ(国営農場)の収穫等に派遣されていた。その間は女盛りのトーリヤは寡婦生活。これが後々問題を起こしたのだが、それは後述する。
つづく