満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 15
平成 7年              著者   江藤 一市
 
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所

『可愛い妹』
ここに到着して十日目位の或る夜の事だった。十時も過ぎてから、激しいノックとそして「ドクトル、ドクトル」と呼ぶ声に目が覚めた。出てみるとすぐ近所に住む老婆であった。話を聞くと一緒に住んでいるドーチカ(孫娘)が、高熱で苦しんでいるので、すぐに来てくれとのことだった。警備兵のマッキャモフも直ぐ行ってやれとのことだったので、体温計と注射用具一式、若干の薬品の入った鞄を提げて老婆と共にその家に行った。この集落には医者は全く居ない。普段は30〓程離れた、隣の村の医療所まで行っていた。それが遠いので一寸した腹痛や、小さな怪我などは良く手当してやっていたので、恥かしながら通称「ドクトル」で通っていた。(決して自称した覚えはないのですぞ!)私は良く「俺はセネタール(衛生兵)だ」とは言っていたが・・・。
着いて見ると、八歳になるドーチカは高熱に真っ赤な顔をして、泣き叫ぶ元気も無くしたのかぐったりとして、ベッドに横たわっていた。測定はしなくても大体は判るのだが、体温計を入れると間もなく四十度近く迄上がる高熱。上半身を裸にして、聴診器をあて、更に一応胸部、腹部の、触診、打診と格好をつけた。
(ドクトルの威厳保持のため)。徐に注射器を取り出し、バグノン(マラリヤ等の高熱時の解熱剤硫酸キニーネ)のアンプルを切る。子供なので、過剰反応があってはと、アンプルの半量ほどを注射した。その時初めて「アーオ・バリッツ!」(ああっ、痛い)と泣き声を上げた。私は更にアスピリンを与え、今晩と明朝一錠ずつの服用を指示した。老婆の「バリショイ・ワーム・スパシーバ」(大変有り難う)を脊に聞きながら、「明日の朝また来るからね」と言い残して帰った。 ところが翌朝、まだ八時半頃、私と林は、皆が作業に出た後の整理、清掃をしていると、昨夜の老婆とドーチカがやって来た。老婆は両手に何か提げ、すっかり元気そうになったドーチカは、手提げの籠を持ってスキップしながらやって来た。「ドウブルイ・ウットロ」(お早よう)野挨拶を交わしながら「昨夜は本当に有り難う。今朝はもうこの通り元気になった」と老婆はドーチカを前に押し出した。にこにこしている彼女に「どうだまだ頭は痛いか?」と訊ねると、首を横に振って「ニエット・サフセム」(いいえ、まったく)と、手提げの籠を前に差し出した。中を見ると生み立てと見えて間だ汚れの着いているヤイーチコ(鶏卵)が、五個並んでいる。お礼のつもりらしい。何しく病気になっても、殆ど薬など飲んだことが無い、況して注射などしたことの無い体には、薬の効果は絶大なものがあると言うのは良く承知していた。この事は、軍隊の頃、北満の大平原で、蒙古人と接触したことがあったが、その時腹痛を訴え「何か薬を・・」と言われた時、持ち合わせの歯磨粉を包んで服用させ、その腹痛が治まったことがあった。信じると言う事は絶対のものだと言う自信はあったが、今度の場合は薬剤などは全然知らない無垢な肉体だったので、余計効き目があったのだろうが、余りの速効に、私の方が驚いたくらいだった。老婆の方も、頭を地に着けんばかりに感謝、両手にさげてきた、自家製のカザックパン、ペルシキ(野菜餡入りパン)、蒸しジャガイモを「みんなで食べて」と置いて帰った。これを機に、老婆は度々何かと差し入れしてくれるし、ドーチカもすっかり懐いて、殆ど毎日遊びに来るようになった。日本の童謡を教えたり、ロシヤ語の歌を習ったり、言葉を教え合ったりした。掃除の手伝いをしてくれるし、一緒にチャイ(お茶)を飲んだり、連れ立って散歩に出て野花を摘んだり、ずいぶんと楽しい思いをさせてくれた。時には昼寝をしているとベッドに潜り込んで来たりする。妹を抱いている様な気で、手枕をさせすっかりご満悦だった。
『特異体験 @ 食塩採蒐』
ここに来て一カ月程経った或る日曜日のことだった。今迄見た事も聞いた事も無い、恐らくこれからも遭遇することはないであろうと思われる体験をした。
朝八時過ぎ、全員が集められ「今日は、朝食が済んだら全員で塩の採蒐に行く」と達せられた。何の事だか良く解からなかったが、兎に角輸送用のトラックに乗り込んだ。約二時間、大平原の中を揺られて着いたのは或る湖の辺だった。さあ回りが5〓もあるだろうか、「湖」と言うより「池」と言った方が適当かも知れないと思われる程だった。対岸は見通せるのだが、辺り一面見渡す限り一本の草木も見当たらない。異常に塩分の多い「鹹湖」なのである。動植物が、生命を維持して行くことを許さない厳しい環境であった。昔学校で、「死海」という「鹹湖」でパラソルかなんか差して浮かんでいる写真か挿し絵を見た記憶はあったが、実際には初めての光景であった。周辺に在る台地などの岩塩が、雨水や雪解け水に溶解して、低地であるこの地に流れ集まったのであった。さして大きくない池で、恐らく一番深いところでも、人の背丈位だろうと思われる。中心まで行ったわけではないので、確かではないが、岸から中心に向かって200b程も歩いても、せいぜい膝下まで位しか深くならない。雨の非常に少ない地方なので、夏場の晴天が二週間も続くと、池の周辺が干上がって、水際が30b位は後退する。するとその乾燥した地面一帯が食塩と変わるのであった。食塩水中の夾雑物等は総て沈澱、所謂「にがり」も底に沈んでしまうので、地表に残っている食塩は実に奇麗なものであった。一般家庭で使う食卓塩(精製塩)と何等変わりなかった。個の塩が、厚さ10aから15aに池の周辺一帯に堆積するのであるから膨大な量であった。


我々十五人は、他所から来た地方人と合流して、四人一組となり十組ほどに分かれて、堆積した塩を掻き集めて幾つもの山を作って行くのであった。別の組はこれを袋詰めとして、橇、馬車などで運ぶのであった。勿論国家管理の仕事なので、行く先は国の貯蔵庫だった。地面は、何千年か何万年かの繰り返しで、どの位の厚さかはとても想像もつかないが、その沈澱物の堆積で、実に都合の良い弾性を持っている。まるで極上の絨毯の上を歩くようである。上質のエバーソフトのようでもあり、人や馬が歩いても、可成りな重量の車や橇が通っても、絶対にぬかる様な事はなかった。それでいてある弾みがあって実に歩き易かった。
十五分の休憩を挟んで、三時間ほど働くと昼食になる。この昼食なるものが、我々にとっては飛びっ切りのご馳走なのであった。カザックぱん(これは我々がつけた名前で、一般では黒パン同様「フレーブ」と呼ばれていたが、上質の粉を使い、焼き方も違うし、バター、ヘッド、その他の油脂、香料も渾然として、実に良い香り、そして素晴らしい味であった)と鴨のスープなのであった。この鴨は春から夏にかけて、何万羽となく飛んで来る鴨を湖(別の淡水湖)の岸辺の芦原などで、網を張ったり、猟銃で撃ったりしたもので、一日で何百羽もの収獲があるとの事だった。それを塩漬けにして貯蔵してあるのを取り出してスープを作るのであった。寒冷地の鴨だから脂の乗りも上々、その美味しいことは一般の人でも中々味わえないと保障付きのものであった。このスープの中に入っている、大切りのカルトーシカ(馬鈴薯)も又素晴らしい味だった。


このグループの中に十二歳になると言う少年が居た。割と小柄で愛くるしい少年だったが、大人達に交じって実に良く働く。休憩時間に話してみると、彼はここのナチャイリニク(村長)の息子とのことだった。「何で働くのだ?」と訊ねると「美味しい鴨のスープが食べたいからだ」と言う。「村長の息子なら、別に働かなくても食べられるではないか」と言うと、思わぬ言葉が返ってきた。
「それはいけない事だ。自分は何もしないで代償を受けるのは良くない事だ。僕は自分で働いて、その当然の代価として鴨のスープを貰うのだ」と言い切った。成程、『働かざる者食うべからず』と言う主義が、ここまで浸透しているのだなと感心したものだった。
つづく