満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 18
平成 7年              著者   江藤 一市
 
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所
『金鉱石採掘。私には無理・・・』
MTSから帰って約一カ月後、三十人程が、ボゴンバイと言う金坑に行くことになった。丸一昼夜、車で走ったのだから1000〓は行っただろう。ボゴンバイには最初から入所していた人が百人程居た。余程待遇が良いらしく、雰囲気がとても明るかった。その筈だった。ここには他の収容所のような鉄条網の柵などは無かった。家の出入り口に警備兵らしき者は居たが、銃も持っていないし、出入りする人をチェックする模様もなかった。聞けば出入り自由で、一般市民との交流も一切制限なし、買い物も自由とのことだった。この収容所には、最初三百人くらいの日本人捕虜が居たらしいのだが、作業態度、成績、協調性、素行、民主性、等を徹底的に調査、思わしくない者は、容赦なく他ノラーゲルに移したり、懲罰作業所に送ったりして、此処には選りすぐりのハラショー・ラボーターばかり残したらしかった。だから金鉱石採掘のノルマ達成率は、常に150%以上で、その報奨金も他とは比較にならない程の額だった。
金坑の作業は一般地方人と共同であったが、特に収入の多いのは、ブリシキと言って、坑内の切り羽にダイナマイトを仕掛ける穴を掘る仕事であった。作業時間こそ短かったが、その代わり極めて重労働であった。六時、二時、十時からの六時間勤務の三交代制で、次の交替迄の二時間の間に発破を仕掛けて、切り羽を破砕するのであった。二十人ずつの交替者が、二人一組となり(地方人とペアの組もあった)発破の穴を十三本掘るのがノルマだった。(切り羽の破砕は別に専門の係が居た)ノルマさえ達成すれば、例え二時間で終わっても、直ぐに出坑しても良いのであった。つまり実働時間は二時間と言うことになるのであった。然しその掘った穴に仕掛けた爆破によって、破砕された金鉱石の量で作業量は評価されるのであった。つまり穴の掘り方が悪ければ鉱石の量も少ないと言うことになる。だから馴れたコンビは実に手早く仕事を片付けてさっさと上がってしまう。何故か知らないが、私はこのグループに組み込まれて、坑内に入る事になって仕舞った。

この穴を掘るのには圧搾空気の削岩機を使用する。削岩機は重さが35〓もあり、これに嵌め込む掘削用の約1b50a位の鉄棒(ブリ)が10〓、合計45〓となる。これを肩で押し上げて、天盤に当てたり、胸や腹、腰に当てて、側壁に押しつけたりして、切り羽に深さ1b20aの穴を二人で、十三本掘るので会った。身体中に削岩機の振動が伝わって、揉みくちゃにされそうであった。

私と組んだ男は、私より二つ年下の青森県出身、入隊前は山仕事をしていたと言い、村相撲では横綱を張っていたと言う偉丈夫だった。それに引き換えずつと楽な仕事ばかりしていた私は、体重こそ65〓はあったが全くの非力、45〓を抱えるのがやっとの有り様。穴を掘る位置に印を付けてもらい、掘削の要領を教わったのだがどうしても上手く行かない。結局四時間余り掛かって、二人で十三本完成したが、その内十一本は彼の掘ったもの、つまり私は二本しか掘れず、しかも、それは下の方の一番掘り易い場所なのだった。こんな私と組まされた彼はまさに不運で、本当に気の毒で仕方なかった。然し彼は厳めしい風貌に似ず、本当に優しい人柄で、役立たずの私と組んだのを悔やんでいる風も無く、「初めての力仕事できつかったろう。その内だんだん馴れてくるよ。心配しなさんな。俺が頑張れば人並みの時間には上がれるようになるから・・・。」と慰め労ってくれるのであった。彼と組んだのは二週間程だったが(私の余りな非能率が、監督の目に余り、他の地上作業に回された)別に嫌な顔もせず、本当に私の為に親切を尽くしてくれた。作業時間こそ短いが、普通の体力、気力の持ち主ではとても勤まる仕事ではない。だからブリシキの待遇は破格なのであった。その窮余に未練は会ったものの、とても私に耐えられる仕事ではなかったので、ブリシキから離れられたのを喜んだものだった。

坑内ではブリシキの他、爆破係、鉱石収集係、搬送係、その他にも雑作業が沢山あり、数十人が従事していた。どの作業も一般人と共同で、中には若い娘も交じり、実に明るい雰囲気であった。ソ連では法律で、女性の重労働は禁止されている。だからブリシキなどには女性は一人もいない。坑内でも、ランプの整備係とか、排水ポンプの監視とかの軽い仕事に就いていた。どの仕事までが女に許されるのかがはっきりしていた。例えば、石(カーミン)の自動車輸送の場合、
(一個30〓以上はある)輸送のトラックから、転がして落とすのは女性でも良いが、車への積み込みは女性は禁止されていた。
この項の初めの方にも書いたが、本当に一般地方人との交際も自由で、自然男女交際もあるとのことだった。この収容所に来て、現地残留希望者の多いのに驚かされた。正式に調査したわけではないが、話の模様に依れば、恐らく十人は下らないのではと思われた。話を聞くと、日本に帰っても、住む家も、働く場所も無い。それよりも此処に居れば、衣、食、住に困る事も無いし、国際結婚の相手も居ることだしの考え方から此処に残って一生を終わっても良いとのことだった。『但し、この考え方には、多分にソ連の赤化教育の影響があったものと思われる。戦後日本の状況が悲惨なものであるとか、帰国しても生活して行けないとか言うような宣伝に左右されたのだろうと思った』彼方こちらと移動して回った私達は、共産教育らしいものは受けていなかったので、とてもそんな考えには着いて行けなかった。四カ月でボゴンバイに別れを告げたが、彼らは果たして希望通りに残留、帰化が出来ただろうか?。

つづく