満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 20
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所
『食料の無い三日間』
此処に来て二週間位経った時、猛烈な風で交通が杜絶。三日間食料が届かず食物の無い日が続いた。最初の一日は仕事に行かなくて良いので、皆ご機嫌、馬鹿話をしたり、トランプに興じたりしていたが、二日目はもう喋る元気もなく皆ごろごろして居た。誰言うとなく魚を捕りに行こうと言う事になって、少し風の弱った時を見計らって、30b程舟を出し、二三十匹の魚を捕って飢えを凌いだ事があった。所が、この三日間でも炊事係Kは、日頃くすねてあった隠匿物資の食料を取りだし、こそこそ自分達仲間と、ミハイルの分だけ調理して食べていた。
捕虜生活三年有余の間に、どの位の人々と接したか知れないが、Kとその仲間、彼ら四人の様な非人間的性格の者共は他に知らない。私の嫌悪、憎悪感は極限に達していた。携行していた医薬品の中に、以前の様な劇毒薬が、入っていたら恐らく使用していたであろうと思う程だった。幸か不幸か薬は品切れだったのでその罪は冒さずに済んだが・・・。約一月の共同生活であったが、何十年も経った今でも、彼等の出身地の人を好きになれない。ナンとか憎けりゃナンとかまで・・・。と言う事か。いかに憎悪、怨念が強いものであったかが窺われよう。
『後日談』
私は本部に帰ってから、ミハイルと彼等四人の一カ月に亘行跡を、逐一部隊長に報告した。絶対に密告ではない。真相究明の為なら何時でも対決する旨も付け加えて・・・。部隊長は、私以外の同行したグループ員からも、事情を聞き糺し真実であることを確認したらしい。それから程なく帰還が決まり編成のためジョロンベットに集結することになった時、此処に十名が残留と言う布告が、ナチャイリニクの名で出された。そして彼等四人の名もその中に含まれていた。常日頃目を着けられていたと言う事もあっただろうが、魚捕り期間中の所業が、その処罰の一因であったのは間違いあるまい。


『特異体験 @ 食塩採蒐』
ここに来て一カ月程経った或る日曜日のことだった。今迄見た事も聞いた事も無い、恐らくこれからも遭遇することはないであろうと思われる体験をした。
朝八時過ぎ、全員が集められ「今日は、朝食が済んだら全員で塩の採蒐に行く」と達せられた。何の事だか良く解からなかったが、兎に角輸送用のトラックに乗り込んだ。約二時間、大平原の中を揺られて着いたのは或る湖の辺だった。さあ回りが5〓もあるだろうか、「湖」と言うより「池」と言った方が適当かも知れないと思われる程だった。対岸は見通せるのだが、辺り一面見渡す限り一本の草木も見当たらない。異常に塩分の多い「鹹湖」なのである。動植物が、生命を維持して行くことを許さない厳しい環境であった。昔学校で、「死海」という「鹹湖」でパラソルかなんか差して浮かんでいる写真か挿し絵を見た記憶はあったが、実際には初めての光景であった。周辺に在る台地などの岩塩が、雨水や雪解け水に溶解して、低地であるこの地に流れ集まったのであった。さして大きくない池で、恐らく一番深いところでも、人の背丈位だろうと思われる。中心まで行ったわけではないので、確かではないが、岸から中心に向かって200b程も歩いても、せいぜい膝下まで位しか深くならない。雨の非常に少ない地方なので、夏場の晴天が二週間も続くと、池の周辺が干上がって、水際が30b位は後退する。するとその乾燥した地面一帯が食塩と変わるのであった。食塩水中の夾雑物等は総て沈澱、所謂「にがり」も底に沈んでしまうので、地表に残っている食塩は実に奇麗なものであった。一般家庭で使う食卓塩(精製塩)と何等変わりなかった。個の塩が、厚さ10aから15aに池の周辺一帯に堆積するのであるから膨大な量であった。
我々十五人は、他所から来た地方人と合流して、四人一組となり十組ほどに分かれて、堆積した塩を掻き集めて幾つもの山を作って行くのであった。別の組はこれを袋詰めとして、橇、馬車などで運ぶのであった。勿論国家管理の仕事なので、行く先は国の貯蔵庫だった。地面は、何千年か何万年かの繰り返しで、どの位の厚さかはとても想像もつかないが、その沈澱物の堆積で、実に都合の良い弾性を持っている。まるで極上の絨毯の上を歩くようである。上質のエバーソフトのようでもあり、人や馬が歩いても、可成りな重量の車や橇が通っても、絶対にぬかる様な事はなかった。それでいてある弾みがあって実に歩き易かった。
十五分の休憩を挟んで、三時間ほど働くと昼食になる。この昼食なるものが、我々にとっては飛びっ切りのご馳走なのであった。カザックぱん(これは我々がつけた名前で、一般では黒パン同様「フレーブ」と呼ばれていたが、上質の粉を使い、焼き方も違うし、バター、ヘッド、その他の油脂、香料も渾然として、実に良い香り、そして素晴らしい味であった)と鴨のスープなのであった。この鴨は春から夏にかけて、何万羽となく飛んで来る鴨を湖(別の淡水湖)の岸辺の芦原などで、網を張ったり、猟銃で撃ったりしたもので、一日で何百羽もの収獲があるとの事だった。それを塩漬けにして貯蔵してあるのを取り出してスープを作るのであった。寒冷地の鴨だから脂の乗りも上々、その美味しいことは一般の人でも中々味わえないと保障付きのものであった。このスープの中に入っている、大切りのカルトーシカ(馬鈴薯)も又素晴らしい味だった。
このグループの中に十二歳になると言う少年が居た。割と小柄で愛くるしい少年だったが、大人達に交じって実に良く働く。休憩時間に話してみると、彼はここのナチャイリニク(村長)の息子とのことだった。「何で働くのだ?」と訊ねると「美味しい鴨のスープが食べたいからだ」と言う。「村長の息子なら、別に働かなくても食べられるではないか」と言うと、思わぬ言葉が返ってきた。
「それはいけない事だ。自分は何もしないで代償を受けるのは良くない事だ。僕は自分で働いて、その当然の代価として鴨のスープを貰うのだ」と言い切った。成程、『働かざる者食うべからず』と言う主義が、ここまで浸透しているのだなと感心したものだった。


つづく