満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 22
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所
『ジョロンベッドの街』
私達の居たラーゲル(収容所)は最初アクモリンスク地区第330収容所第二分所と呼ばれていたが、第一回の帰国に因るアクモリンスク収容所の閉鎖に伴い、その管轄下。カラカンダ司令部の方に委嘱されて、1947年8月にはカラカンダ地区第330収容所となった。
私達の居た所をジョロンベッド収容所ー通称本隊ーと呼んでいた。ジョロンベッド市街には、一ヶ中隊が分遣されて、その収容所をラクプンカ(分所)と呼んでいた。本体の重点作業は炭坑だったし、分所では金坑作業が主だったので、普通私達が収容所を呼ぶのに、省略して本隊を炭坑分所を金坑又は金山と呼んでいた。炭鉱部落には、昔ながらの原始的な炭坑と、私達日本人が建設した近代的発電所と、石造りの文化住宅と、地方人の土造りの住宅が若干あるだけで、まだ町と言うには余りに殺風景だった。草花は近くの野っ原に咲いてはいたが、植木一本見たことが無い。
それに引き換え金坑の方は、そこにはジョロンベッド市庁があり、金山作業も相当大々的に継続されていた関係で、地方人の住宅も三、四百軒も有り、官庁、病院その他大きな建物もあって、所々には植木も植えられていた。日曜日と水曜日には、バザール(露天市)も開設されて比較的活況を呈していた。私達が考える市街と言うのは当たらないが、カザクスタンの一角に居て考えれば矢張りジョロンベッド市街と言ってもいいだろう。炭坑から5、6kmの距離で、普通の天気の日には作業場から市街の全貌を眺めることが出来た。季節とか、その他資材、作業計画の都合とかで、本部の方の仕事が無くなると、その作業員は良くジョロンベッドの町に駆り出されて行った。土木、建築作業、露天掘り作業その他雑役だったが、町に行けば結構地方人との接触も有るし、殊に容姿、風貌が日本人に似たところの有る東洋人種系のソ連の女性を見れることが何よりの楽しみだつた。 市長はシニンスキーと言って、この地方一帯の行政権、司法権、各作業の命令権まで持っていて、捕虜の作業も全部彼の指揮下にあった。分所は市街の高台に有り、金坑の現場まで1.5km位だった。バザールは分所から1km位離れた広場で週二回開設された。町の所々にマガジン(配給所・店)が、全部で十軒程あって、配給品以外の品物も売られていた。不思議なことには、管理人は殆どカレイッツ(朝鮮人)だった。頭脳程度の低い他のソ連人を駆逐して、計算力の達者なカレイッツがその地位を確保したものだろう。中には日本語を話す者も居たが、殆どが現地生まれで朝鮮語さえ知らない者が多かった。然し日本人そっくりの顔立ちの年頃の娘は捕虜達の心にはビィーナスだった。皮膚の色、顔形の似ていることに親しみを持つのは、向こうも同じらしく、そんな感情を抱いている様に感じられた。機会を作っては彼らの所に足を運び、煙草や牛乳の外に、彼等の家庭で焼いたパンなどを買ったものだった。一度などは、故郷の匂いのする味噌(小麦粉で作られてはいたが)が欲しくて、持っていた金全部をはたいて分けて貰った事もあった。兵隊の一人がそのカレイッツの娘と良い仲になったと言う噂も聞いた。その兵隊は現地に残留、帰化を希望していると言う話も聞いたが果たして望みが叶ったかどうかは、はっきり知らない。
『共産教育』
私達が唯一外部の事情を知り得るのが『日本新聞』だった。この新聞を初めて見たのは入ソした翌年46年5月だった。政治部員のソ連将校ムラトシィ・リチナント(少尉)が一抱えの新聞を持って来て、五人に一枚くらいの割で配った。「日本新聞」と印刷されていた。日付は二ヶ月程前のものだったが、長い間日本語の活字から遠ざかっていた私達には、限りなく懐かしいものだった。ところが見出しの至る所に「天皇制云々」「天皇財閥云々」「天皇云々」等々、私達のそれまでに聞いたこともない、絶対に信じられない様な記事が印刷されてあった。「全くいい加減なことを書きやがる」「何処で発行したんだろう」「朝鮮人が書いたんだろう」「ソ連に居る共産党の日本人だろう」「破ってしまえ」「おい、おい破るな、煙草の巻き紙になるぞ」正に喧々諤々。
この『日本新聞』なるものは、ソ連元タス国際通信の日本特派員で、長く日本駐在の経歴を持つ、コワレンコ中佐により、終戦直後の1945年9月15日に発行、1949年(昭和二十四年)迄に、630号を出した。発行したのはハバロフスクで、旧満州から略奪した印刷機、活字を使って印刷した。コワレンコ中佐が責任者で、シべリヤの天皇と呼ばれた諸戸文夫こと浅原某を主筆に七十人程の陣容だったと言う。因に諸戸文夫とは、当時のソ連外相モロトフをもじってペンネームとしたもので、後になって身分が露見、25年の重労働の判決を受け、結局最終引揚組の昭和31年12月に復員したと言われている。
「日本新聞」の初期は、主として、天皇制の批判、攻撃であったが、段々内容が変わっていった。1・天皇は戦争責任者である。2・天皇制を打倒せよ。
3・日本国内財閥の徹底批判。三井、三菱、住友等の財閥が戦争を起こした。
4・軍国主義非難。 5・今日本はマッカーサー率いるアメリカ軍が進駐し、南方や中国からの復員兵で、大混乱している。 6・食糧が無く、餓死者が続出している。 7・関東軍将兵は帰したいが、日本の国情が安定する迄預かっている。帰すと言ったが、帰還船を寄越さない。 8・また、熊沢天皇が登場したり、弓削道鏡が善人で、和気清麿が悪人だなどと言う、日本歴史にも言及する。 日を追うに従って、関東軍軍閥の横暴の暴露、○○部隊長の残虐行為、××憲兵の人道無視とか、将校は過去に於て、兵隊の膏血を絞り尽くしてきた。その憎しみを将校に振り向けよ、とか、反動将校を追放せよとか、兎に角将校と兵との離間策。兵隊と下士官を敵同士にするようにとの宣伝、煽動等々。階級闘争の意識を弥が上にも植付けるような記事が書かれる様になった。全ては軍隊組織の破壊、社会思想の、それも共産主義思想の、普及徹底が目的だった。然し今まで政治的な事に対しては全く関心が無く無知だった私達にとっては、ファシスト、階級闘争、反動などの言葉は全くチンプンカンプン、階級と言えば軍隊のそれしか知らぬ私達なのだから無理もない話。然しデマだ、嘘だと言いながら不知不識の間に皆の思想が日本新聞に支配されていった。各人の不平不満が、何の斟酌もなく、常軌を逸して、日常の生活の上に声となり動作となって現れるようになった。このようにして「日本新聞」は着々とその使命を果たして行くのでした。
私達にとってはそんな事はどうでも、煙草(マホルカ)の巻き紙として、絶対必要な、重要物資だった。 何故、こんなことを長々と書いたかと言うと、愈帰還となりジョロンベッドを出発し、途中のハバロフスクで、また、乗船地のナホトカでの、民主化運動なる代物に大いに関係があるからなのです。

つづく