満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 25
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所
『ナホトカ収容所』
どうにか覚え込んだ「赤旗の歌」と、「インターナショナルの歌」を声を張り上げて、歌いながら十七日間の旅を終えてナホトカの終点に着いたのは12月22日の真夜中だった。貨車の内外を完全に掃除を終り元気よく第二分所の門を潜った。収容所管理部委員の案内で或る広場に整列、そのまま装具を解いて腰を下ろす。あちこちから革命歌の合唱が聞こえてくる。眼前の湾の中にぼーっと汽船が三隻浮かんでいる。あれに乗って日本に帰れるんだと思うと胸が締めつけられるような感慨を覚える。順番に入浴(と言っても、一人1?位でやっと身体を塗らすだけ)を終わり皆がバラックに入ったのは夜が明け始めた頃だった。一坪位の広さの板の間に24人づつの割当て、重なり合う様にして、うとうとしたと思ったら直ぐ集合がかかった。装具を持って直ぐ近くの海岸に出た。被服検査と。中隊の再編成が有り、バラックに帰ってきた。あっちでも、こっちでも革命の歌の合唱練習が続けられている。所内を通行する者は必ず駆け足だ。二人以上になると必ず腕を組んで「えっさ、えっさ」と掛け声を掛けて駆け足で行動する。翌日は朝から所内の雑役が割り当てられた。炊事の馬鈴薯の皮剥き、薪割り、糧秣受領、野菜の選別、その他種々の雑役がある。どの現場に言っても宣伝部のアクチーブ(積極活動分子)の一人か二人が立っていて、民主思想の教育宣伝をやっている。人々は作業しながらそれを聞いているのである。理髪部に行くとそこでも散髪しながら民主思想を教育している。夜が来た。一日中、暇さえあれば革命歌の練習、踊りの稽古で疲れきった身体を、一坪24人の板の間に詰め込んで皆黙って過ごす。やがて宣伝部のアクチーブが二人入ってきた。他の部屋からの人々で通路もぎっしりだった。彼は皆に一礼した後口を切った。『同志諸君、我々は今、最終集結地ナホトカに来た。帰国を目前に控えて我々は何をなすべきか。我々はここで完全に民主化しなければならない。在ソ三年半の民主運動の総仕上げをしなければならないのだ。同志諸君、それに先だって我々は我々の中に潜んでいる反動共を叩き出さなければならない。我々の力によって反動を完全吊るし上げ追放するのだ。同志諸君、今此処に、当収容所宣伝部の方に議長の役を買って戴いて、人民裁判による反動カンパを開きたいと思うが、若し異議がなかったら拍手を以て賛意を表して貰いたい』その挨拶に満場の割れるような拍手が響いた。
場所の都合で中央から半分づつに区切って、反動カンパが決行されることになった。アクチーブが一人づつ別れて夫々議長となり、大衆審判を進めて行く。群集の中の一人が誰かを指名する。指名された者が議長の前に出て行く。指名される者は全部将校である事は言う迄もない。議長が、階級、氏名、産地(出生地)生い立ちから現在までの経歴の陳述を要求する。被告(指名された本人)は大きな声でそれに答えなければならない。群集が野次る。議長は被告の弱点から弱点を衝いて詰問する。個人的な欠陥、性格的な弱点迄掴んで人権も何もあったものではない。徹底的に詰問される。群集は面白半分根も葉もないヤジを飛ばす。「大衆が叫んでいるから、お前のしたことの悪事は疑う余地なし。」と議長が言う。否定すればするだけ不利である。「お前の着ている服は何だ」「将校服であります」「それは何処で作ったものか」「階行社であります」「階行社とはどんな所か」「将校団の為に設けられたものであります」「そうだろう。人民大衆の血と膏を絞り取って、将校だけがぬくぬくと生活する為に作られたものだろう。お前は労働者農民の膏血を吸って、一人だけ将校であります、私は偉いんでありますと言う顔をして兵隊を顎で扱き使った人間なんだ」。 「…………」。「今それがはっきり判った筈だ。そして労働者農民の力強い団結の前には、お前達特権階級の看板だけの空威張りがどんなに脆い物であるかが判ったろう」 「………」【よくもまあと思う程、更に更に裁判は続き、遂には『お前の様な奴は日本に帰したらどんな事をするか分らん。もっと真の民主思想に目覚める迄ソ同盟の地で労働させる』と我々の最も怖れている言葉を口にした。その時のその将校の表情、顔色、とても真面には見て居れなかった。然しあんな裁判など一種の茶番劇だったと後で思った。その将校は別に何事もなく私達と一緒に帰ったのだから・】この他にも何人かの将校が吊るしにかけられた。人は様々泣き顔になって哀願するのも居れば、曾ての中隊長の威厳を崩さず、敢然と反論を投げつけた人も居た。『乗船』
税関の検査を受け復員式を挙行してから私達は待望の港へ向かった。一人一人の名前を呼び上げられてから最後の分所の門を出た。もう直ぐだ。船に乗れるのだ。門を出てから5km余りの道を港に着く迄私達は歌い続けた。喉が破れそうだったが私達は夢中で歌い続けた。港に着いて船を待つ間、そこでも盛んにアジ演説が行なわれた。各中隊のアクチーブが代わる代わる梯団の先頭に立って演説する。群集が共鳴のヤジを飛ばす。一渡り演説がすむと今度は革命歌の合唱。2500人の大合唱がナホトカの湾に谺する。船が岸壁に横付けされる。7500トンの灰色の船は、幾度か日本海の荒波を乗り切って、私達と同じ引揚者を輸送したのだ。ブリッジが掛けられて一列になって順次上って行く。ブリッジを一歩一歩上り詰めて、甲板に辿り着いた時、唯ぼーっとなった。今まで張りつめていた気持ちがいっぺんに何処かへ吹っ飛んで魂が抜けたようだった。2500人の帰還者の乗船が終わると、船は静かに纜を解き、夕凪の海に滑り出した。甲板の欄干に寄りかかって港の一端を眺めた。築港作業に従事している同胞が、働く手を休めて盛んに手拭を振っている。考えてみると何と残酷な光景ではないか。今祖国に向けて旅立つて行く私達を目の前にして、血みどろの重労働に従事し続けているのだ。最後の地ナホトカで反動と目された人達が帰国寸前に足止めを食って、この地に残されているのだ。ナホトカ収容所のアクチーブ達が、同じ日本人の運命を左右しているのだ。許し難い怒りを覚えたが、どうする事も出来なかった。私は今眼前で作業に従事している彼らに、一日も早く解放される日が来ますようにと祈り、力を籠めて帽子を振り続けた。
二日目の夕方から少々揺れ始めた。日本海の真っ只中なのだから無理もない。ふと甲板に出て見ると物凄い人だかり。群集を掻き分けて前に出て見ると、その中央に一人の男が変形した顔を下向けて立っている。「やっぱりそうか」と直ぐ状況を推察した。昨日の夜或る右寄りの何人かが集まって「おい、この船にアクチーブが何人か紛れ込んで乗っている。見つけだして日本海に叩き込もう」と穏やかならぬ話をしているのを耳にしていたからである。その場所に船員のそれも可なり上級職と見える人が居合わせて聞いていた。然し止めだてするでもなく「やるのは構いませんが、投げ込むのは止めて下さい。船の方にも責任が有りますからね。余り酷い事をして警察沙汰になる様な事はしない方が良いですよ。現に舞鶴で相手を殺して逮捕され、家に帰れなくなった人も居ますよ」と笑いながら話していた。その内にもう一人引き摺り出された。かって自分達がやった大衆裁判に掛けられるのも因果応報、自分の蒔いた種であろう。殴る、蹴る、踏みにじる。もうとても立ち上がれまいと思う程やっつけられた時、一人の船員が現れた。昨夜の船員だった。『ああ、一寸待って下さい。私はこの船のパーサー(事務長)で山口と申します。もうこの位で止めて戴けませんか。皆さんのご立腹は良く判ります。然しもうこの人達も十分反省しているでしようから、この位にしておきましょう、これ以上やって何事かあっては船の方も困りますので・・』。この仲裁でどうやら落ち着く事になった。
『上陸』
島が見えた。段々と日本の土に近づいてくる。緑の木々、そそり立つ岩山、総てが懐かしい。美しい国、暖かい国、夢に見続けた国に今私達は辿り着こうとしている。黄色と水色の信号旗が帆柱高く掲げられた。
タラップを下りる足も軽い。岸壁、そして沿道にずらりと並んだ出迎えの顔・顔・顔、涙が自然に溢れて、日の丸の小旗が滲んで見える。
上陸した私達は引き揚げ援護局の宿舎に入った。白衣の天使が大勢で出迎えてくれたのは嬉しかったが、いきなり頭から白い粉を無造作に振りかけられた。「うわーっ」と悲鳴を上げたが、消毒と判り我慢した。そうして入浴三年半振りの風呂らしい風呂思わず歓声を上げた。、
支給された2000円程が素晴らしい大金に思えた。(1000円で家が一軒建った頃の金銭感覚しかなかったので)売店で饅頭一個10円に驚いたものだった。忙しい宿舎での三日間を過ごし懐かしい故郷の土を踏んだのは、1948年12月5日だった。九州の冬は暖かいなあとしみじみ思ったものだった。

《 完 》
  江藤 一市氏、まだ存命です連絡の取れる戦友を捜してます