満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 3
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所

 【軌道が無い汽車

 
翌朝、昨夜のショックもまだ覚めぬ儘、早朝から五百人ずつの組み分けが行なわれて、夫々別々の収容所(ラーゲル)に送られることになった。
その時に別れた人達とは、それ以来会ったこともない。どの様な運命を辿ったのやら、何処でどうなったのやら知る由もない。
見渡す限り銀一色の大平野を、八時間ほども、幌つきの大型トラック (米国製のスチュードベーカーだと聞いた)で、揺れ続けた。途中で有蓋貨車らしきものが四、五輛ずつ置かれてあるのを何度か見かけた。(軌道は無い)ちらちらと人影らしいものが動いていた。後で聞いたことであるが、この貨車は人の住居で、何処からか連れてこられた人達で、一、二年で移動するとのこと。その時には汽車が、レールを敷設しながら来て、その貨車を繋ぎ移動、目的地に着くと、また切り放して線路を撤収しながら帰って行くとのこと。とても日本では考えられもせぬことである。何しろ枕木などは不要なのだから・・・。

 そうこうしている内に愈々目的地『アナール』収容所に到着した。
屋根の低い平屋建ての粗末な建物が十数棟並んでいる。周囲は、有刺鉄線で囲まれ、四隅には見張りの櫓があり、防寒服に身を固めた警戒兵が監視している。
それが、それから三年半、悲喜交々のドラマの幕開けであった。冒頭にも述べたが、その過酷な労働の悲惨な状況などは、数多くの抑留記に克明に記されている。私は努めてそのような部分は端折って、その生活の中に有ったささやかな楽しみ、喜び、明るさ、笑いなどに焦点を絞って記したいと思う。然し、決して辛い事、苦しい事、悲しい事が無かったわけではない。矢張り想像に絶するような事も確かに有ったことを申し添えておく。


 【最初の恐怖全員真っ裸

収容所に着くと、先ずソ連の輸送係将校から収容所長に引き渡すための人員点検がある。将校は指を開いた右手を高く上げ「パ・ペヤチ、パ・ペヤチ・」(五人ずつ、五人ずつ)と叫びながら五列縦隊に整列させる。五列に並んでいるのだから、右側の一列を数えて五倍すれば良さそうなものだが、そうはしない。態々「アジン・ドア・トリー・チテリー・ペヤチ」(1・2・3・4・5)と、一人ずつ横に数える。人数が多くなると五倍の暗算が苦手らしい。数が進んで百二十にもなると数え違って、又一からやり直し。「アジン・ドア・ツリー・・・」全くやりきれない。大体ソ連では英才教育は徹底しているが、一般の人は計算に弱いと言うことを知る場面に度々遭遇したがそのことは後で書くことにする。英才教育こそ徹底しているが、反面一般人には教育が行き届いていないのではないかと思われる節が有る。尤も此はずっと後になって感じたことだが・・・。
漸く引き渡しが終わると早速消毒。大きな部屋に入れられると、装具を下ろして並べる。位置を変えて全員真っ裸にされ、ご存じのDDTを頭から浴びせられた。何しろ満州内一ヶ月は全然入浴していないし、ソ連に入って約一ヶ月の間に二回「バーニヤ」と称する蒸気風呂に入ったくらい。それも使用する水は各人洗面器一杯の制限。風呂好きの日本人には大きな苦痛だった。殆ど全員が垢まみれ、不潔この上もない。そして虱と南京虫には悩まされ通しだった。



 【日本人の断種?なのか
 
 消毒の終わった者から身体検査ということで、二十人ずつ別の部屋に呼び込まれた。私は衛生部員だったので、立会ということで軍医と一緒にその部屋に入った。部屋は粗末な造作ながら、壁は泥煉瓦で厚く、ペーチカとストーブで暖房はよく利いていた。
 呼び込まれた二十人は裸で部屋の隅にかたまっていた。ロシヤ人の将校が三人制服姿で座っている。中の一人は同じような服装で女医らしく、中尉の肩章をつけていた。
 ところがその女軍医は徐に無気味に光った西洋剃刀を取り出した。『さあ大変だ!これは矢っ張り噂通りだったのか!』と皆が顔色を変えた。その噂とは、『優秀な日本人の血筋を絶つために、捕虜になった兵隊は、生殖作用が出来ないようにあそこを切り取ってしまう』というものだった。
 それを聞いた時には「なんぼなんでもそんなバカな事があるもんか」と笑い合ったものだった。然しこの場になると笑い事どころではない。皆は顔色を変え息を潜めて成り行きを見守った。最初の一人が呼ばれ、尻込みするのを引き立てられ女医の前に立たされた。
 顔面蒼白今にも泣き出しそうにぶるぶる震えている。前を覆っている手をピシリ兎叩かれ気を付けをさせられた。右手に剃刀を構え、左手で恐怖のため縮み上がっている一物をグイッと引っ張った。『アアッ!やられる!』と見ている連中が声を上げそうになった。
 とても正視出来ず思わず目を瞑った者も居た。私も「やられるな」と思った。
 

 【虱の駆除

 ところがそうではなかった。剃刀は「ジョリ、ジョリ」と派手な音を立てながら局部の毛を剃り落とし始めたのである。水も石鹸も使わないので、かなり痛いらしく顔が歪んでいる。それでも切り取られるのに比べたら少々な痛さは我慢できるが、果たしてこれだけで済むだろうかという不安は消せなかった。然しその作業は全部剃り終わるとそれで終わり、次の者が呼び出された。三、四人済んだ頃、隊員の中から理髪の経験者が連れてこられて女医と交替となった。兵隊がやるのであれば「痛い」とか「水をつけろ」とか文句も言える。
 ソ連の将校達はにやにや笑い、何か解からぬロシヤ語でがやがや喋りながら眺めて居た。結局最初の二十人だけで、その作業は中止となった。何の事はない。後はやらなくても良いと言うことになった。恐らく面白半分にやったことだろうが何にしても二十人は、貧乏籤を引いたものである。

 
然しそれには、それなりの訳が有ったのである。これも後に聞いた話だが、ソ連軍では極端に虱を怖れる。それはドイツ軍と交戦した時、「発疹チフス」が猛威を振るい、その為にソ連軍が戦闘に敗れた苦い経験が有った。その「発疹チフス」は虱の媒介によって伝染するので、虱の駆除、発生防止には、異常な迄に神経を使っているのであった。陰毛にはその虱が宿泊?していると考えたらしい。かくして兎に角各バラックに分散して起居することとなり、いよいよここ『アナール収容所』の生活が始まったのである。


 
【どうにもならぬ雪かき】

 ここアナールでは炭坑に入って石炭を掘るのが主な作業。石炭関係の作業に就く人員が、地下地上合わせて二百人位。その他の人員は殆ど毎日雪掻き。この地方は砂漠地帯なので水に乏しい。そこで大きな人口池を作って雪解けの水を溜める。可なり遠方から、馬車(冬期には橇)に水樽を積み、馬に挽かせてその水を汲みに来る。
 その池を「カナール」と呼ぶ。「カナール」には別に運河という意味も有る。冬期は氷が張っているので、その上に雪が余り沢山積むと水が汲めない。だから毎日その上の雪を撥ね除けるのである。シベリヤの雪は全くさらさらで、手で握っても絶対に固まらない。
 その雪を「ラパートカ」というスコップみたいな物で掬うのであるが、それが木の板に柄を打ち付けただけの平べったいもの。それにさらさらの雪が載るわけがない。だから辺りに撥ね散らすだけ、能率の悪いこと夥しい。そしてここは風が強い。雪を掻き集めて「ナシルカ」と呼ぶ箱形の運搬器具に入れ、二人で抱えて少し離れた所に運ぶ。ところが、折角掻き集めた雪も少し強い風が吹くとパーッと全部吹っ飛んでしまう。いくら氷の表面が出るように掻いておいても、一風吹くと元の木阿弥。何ら効果はない。最初の頃こそラパートカを雪に突き立てて、四、五人も集まり無駄話などしていたが、四、五日も経った頃には、皆そんな元気を無くして唯黙々と雪を撥ねる。じっとしていると、体が冷えるのでなんとか体だけは動かしている。気温は大体マイナス五度から十度前後。然し風の強いときには体感温度はマイナス二十度にもなる。防寒被服着用といえども、風を遮るものは何一つない吹きっ曝し、栄養不足の体にはぐんと堪える。それに何よりも辛いのは腹の減ることだった。


【ここでの給与】


 ここで給与に就いて少し書いてみることにする。朝食は黒パン(薄い食パン二枚程度)一切れと、塩鮭の頭から採ったスープが飯盒の蓋半分くらい。昼は粟のカーシャ(お粥)が飯盒の蓋に三分の一くらい。
 夜は黒パンとカーシャ。パンはいやに酸っぱく、皮は凄く固い。原料はライ麦らしいが、粉に引いて麩は除かない儘なので肌理が粗い。後々慣れてくると結構独特の味が有って、美味く感じるようにはなったが・・・。カーシャは粥と言うより重湯に近い。普通は粟である筈だが、最初何回かは粟であったが間もなく稗に変わった。
 関東軍の馬糧であった物を押収して回したものらしく、袋に部隊の名前入りの札が着いていた。ざらざらの砂が飯盒の底に溜まり、人間の食べ物とは思われぬ程であった。世の中にこんな不味いものが有るのかと不平は言いながらも、空腹には代えられず、食べ残す者は一人も居なかった。
 この砂入りカーシャが二カ月位は続いた。在庫の稗が無くなってやっと元の粟に戻った。スープは塩鮭の頭と尻尾(身の部分は全部収容所の職員の食卓に回っていたらしいが・・・)をぐつぐつと煮込む。野菜と言えばカルトーシカ(馬鈴薯)の荷崩れがほんの少量、形は全く無い。青野菜などお目にかかったことが無い。
 然し、この塩鮭の頭や尻尾は、長時間煮込むと、すっかり軟らかくなって、全部食べることが出来るのでカルシューム補給には貴重なものだった。

【野犬のスープ】


 スープと言えばこんな事があった。入所以来肉と言うものを食べたことが無い。誰かが言い出して、野犬を捕まえて食おうではないかと言うことになった。
 夜になると野犬が餌を求めて炊事場の付近に現れる。純然たる野犬で犬と言うより寧ろ狼に近い。かなり危険にも思われるが背に腹は代えられず、それに目を着けたのである。 漬物を作るときに使う大きな樽を持ち出して伏せ、その一部分を持ち上げ、木片で突っ張りをする。それに長い紐を着けた。夜になるのを待って樽の下に餌らしきものを入れ、二人の勇士が十メートル程離れた地面に伏せて頭から外套を引被り一人は紐の端を握り、一人はタポール(薪割り)を持って息を殺し野犬の現れるのを待った。
 間もなく獲物が出現餌に釣られて樽の下に入る。紐を引く、見事成功。棒切れとタポールで仕留めたのはかなりの大物だった。これを引き摺って帰り炊事場で解体。肉は希望者に分けて部屋のペーチカで焼肉。久し振りの肉に犬と言うことも忘れて各人大満悦だった。
 さてその頭であるが、此でスープの出汁を取ろうと言うことで、大鍋に入れ、ぐつぐつと煮込んでいた。
 ところが、ちょうどそこに当直のソ連将校が夜間巡察に来たのである。炊事係の者に「おおやっているか」とか何とか笑いながら話しかけて見回っていたが、
「何が出来るのかな」と言いながらその鍋の蓋をとった。『ウワーッ!』と叫び、蓋を放り投げると同時に腰の拳銃を引き抜いて鍋の中の怪物に身構えた。付近に居た炊事係の者も驚いて急いで身を退いた。『なんだこれは!』と炊事係責任者は大分絞られたらしいが、捨てろとは言わなかったので翌朝のスープはそれだった。そんな事情を知らない大半の者達は「今朝のスープは何時もと違って凄く美味しい」と舌鼓を打ったものだった。

 

【とにかく腹ぺこ】


 兎に角、食べ物の絶対量が少ない。誰も彼も四六時中空腹であった。それもその筈、食欲旺盛な若い連中ばかりなのだから、寄ると触ると食べ物の話ばかり。
 中には「この腹の減っている時に食い物の話をするな。余計腹が減る」と怒る者さえ居た。『ひもじさと寒さと恋を比ぶれば恥かしながらひもじさが先』と言う狂歌があるが飢餓状態も、極限近くなると、人間の知性、教養なんてものはどこかへ吹っ飛んで仕舞うものだと言うことを、、つくづく思い知らされた。道かかすると理性さえ消されて仕舞うものである。別の収容所に移ってからの事であるが、ハンガリヤ人の兄弟が同じ収容所に居た。
 食べ物の少なかったことは、此処も同じだったが、その兄の方に故郷から小包が届いた。その中に入っていた食べ物を一人で食べたと言う事で、弟が兄をナイフで刺し殺すと言う事件があった。これなども普通の心理状態であったらとても考えられないことであろう。

つづく