満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 4
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所

 元軍曹が泥棒

入隊前は中学(旧制)の先生をしていたTと言う乙種幹部候補生上がりの元軍曹が居た。軍隊当時は大した張り切り屋で、物凄い気合いを入れることで有名、兵隊に随分恐がられていたものだった。その彼が収容所に入ってからは、信じられない程の変わり様。
 顔は全く精気を失くし、どろんとした眼差し、それで何時もきょろきょろ落ち着きが無かったが、事食べ物となると、まるで人が違ったように目をぎらぎらさせる。収容所に入ってからは下士官も兵隊もない。『働かざる者食うべからず』で、皆一様に労働に服する。
 ところが彼は作業に行っても他の人の半分も動かない。空腹で腹一杯の力仕事は出来ないと言う者も居たが、彼のようにサボる者は他に居なかった。
 毎朝、暗い食堂でパンとスープを受け取って、長い机に並んで食事をするのであるが、スープを飲んでいるほんの一寸の隙に目の前のパンが消える。何しろ一日の活力源なので当然大騒ぎになる。結局彼のポケットからそのパンが出た。そして袋叩きに遇った。一度などは見つかって「此は俺のだ」と言い張ったこともあったが、自分の分は受け取って直ぐ立った儘で食べて仕舞っていたのだが、それを見ていた者が居て誤魔化しは利かず、その時も随分殴られた。然し彼は懲りもせず食べる机を変わったりしてその後もちょいちょいやっては露見、その度に随分殴り飛ばされたものだった。そのことは全員に知れ渡って、食事の時、彼の回りのものはスープを飲む時でも、片手はパンから放さないようになった。皆が皆そうではないのだが、困窮、殊に飢餓状態になると、人間は考えられないような変わり様をするものだとはっきり知らされた。


【 医療所開設 】


 病人が出た場合、収容する場所が是非必要だと言うので医療所を開設すると言う事になった。これが出来たら私は診療の手助けをする事になるので、あの大変な雪掻きに行かなくて済むようになるので大賛成だった。
 隊員の中から木工経験者五名、左官その他手伝い五名を集めて建築に取り掛かった。彼等も本職の仕事なので嬉々として働いた。木材の採寸、切り込み、組み立て、流石に本職、実に鮮やかな手際である。
 何しろソ連での家造りは傑作である。柱を立てるには、地面に穴を掘ったら、其処に直接柱を立てて埋める。それに上って紐を張り高さを揃えるのに上部を切る。
 そしてその上に梁を乗せ、鎹を打ち込んで止める。実に簡単なものである。日本人のように、鑿で穴を掘ったり、ほぞを作って差し込むと言うような器用な仕事は駄目なのである。途中で何度も所長やその他の職員が作業を見に来たが、誰もが日本人の巧妙な建築法に驚嘆したものだった。結局十日程で立派な療養所が完成。診療を開始することになった。


【ドイツ人が通訳】

診療のスタッフは、軍医一、衛生下士官一、衛生兵二、と言う編成で我々はその一部屋に起居することとなった。今までの狭苦しい、汚い二段ベッドの生活とは雲泥の差。まさに天国の思いだった。
 診察は軍医が行ない、ソ連の軍医が立会する。体の具合の悪い者は、所属の隊長に申し出て診察を受ける。軍医が診察してその病状をソ連軍医に報告し、作業を休む許可を貰うのである。作業に出すかどうかを決めるのはソ連軍医である。
 ところが入ソしてまだ日が浅いので、言葉が全然通じない。部隊に一人だけ通訳は居るが、作業の方の連絡に掛かりっ切りで、とてもこちらまでは手が回らない。そこでソ連軍医は、ドイツ人の衛生下士官(これも捕虜)を連れて来た。軍医は学校時代に使った片言のドイツ語でドイツ人に話す。これをドイツ人はロシヤ語に直してソ連軍医に伝える。そしてその返事も逆順で軍医に戻ってくる。
 軍医のドイツ語もそう達者ではないので、その意志が完全には伝わらない。これでは余りに不便なので、私は、少しロシヤ語を勉強して、診療が少しでもスムーズに行くように、せめて日常の用足しが出来る位になろうと決心した。
 早速部隊の通訳の所へ行き、事情を話してたった一冊しかない日露辞典を貸してもらった。日常に必要と思われる単語だけを拾って、二昼夜かけてそのぼろぼろの辞書から書き写した。それからと言うものは、それを片時も手放さず、あう人毎に何かと話しかけ、ロシヤ語の習得に努めた。人の一心とは恐ろしいもの、一カ月もするとどうやら日常の話しはかつがつ通じるようになり、診療の時のドイツ人も要らなくなった。

【医療天国】

《考えてみると、このことが私の抑留生活の上でどんなに役に立ったことか、ど んなに助けられたかは計り知れないものがあった》 受診に来る人達も様々。
 中には仕事が休みたいばかりに仮病を使う者も居た。凡そは判るのだが、それを軍医に言うわけにも行かない。労働の国だけあってソ連軍医はその事に対しては殊に厳しい。
 一番困るのは、神経痛、リューマチスである。他の病気は下痢とか発熱とかで症状が外から見える。ところが神経痛、リューマチスは、自覚症状だけで外からは判らない。
 だから本人が幾ら痛いと言ってもソ連軍医は「お前は仕事がしたくないのだろう!。ロードリー(怠け者)だ!」と言って決して休むことを許してくれない。大体、神経痛、リューマチスと言う病気は、気候風土の関係か、日本には頗る多い。外国では極めて少ない。従ってソ連軍医には納得出来ないらしい。さあそうなると兵隊の方も知恵を絞る。
 熱さえあればと、診察を待つ間に挟んでいる体温計を衣服で擦って目盛りを上げる。うっかり擦り過ぎて四十二度まで上がったのをその儘出して、それが露見、「この嘘つきめ!お前はチュリマー(營倉行き)だ!」と怒鳴りつけられた事もあった。
 又別の方法を考えた者も居た。部屋から焼きジャガイモを持参して、それに体温計を差し込んで温度を上げる。何の事はない、ジャガイモの体温測定だ。
 毎月身体検査があり、体格によってランク分けされる。身体検査と言っても、各人を裸にして向こう向いて並ばせ、所長・ソ連軍医・労働係将校等三、四人で、各人のお尻を叩いてみたり、皮を引っ張ったりして、その張り具合で等級を付けるのであった。ペールウイ(一級)、フタローイ(二級)、トレーチー(三級)、オーカー(O・K)とランク付けされる。このランクをカテゴーリと呼び、これに依って労働が決められるのであった。一級は、炭坑・石切り・材木運搬などの重労働。二級は、道路・建築・農作業等の普通作業。三級は營内などの清掃等の軽作業。O・Kは保護、休養。と決められていた。

【弱者厚遇】

 
この国での弱者厚遇と言うことに就いては、それ迄の日本軍の常識とか、制度とかではとても考えられもせぬ程に手厚いものであった。O・KにはO・K食と言う特別食があって、質も量も一般食より格段上であった。又医療室に入室した患者には、病人食として、白パン(ベールイ・フレーブ)、米のお粥(リースヌイ・カーシャ)肉のスープ(ミャーフヌイ・ソゥプ)が支給された。当時お米のお粥等は、一般地方人でも滅多に口にできるものではなかったので、随分と羨ましがられたものだった。私は別に共産主義の政治が良いと誉めているのではない。唯思いもしなかった事実に出会った驚きを記しただけである。これは帰ってから後に聞いたところによると、抑留された場所によっては随分酷い待遇で、餓死した人、過労で倒れた人、衰弱で死亡した人などが多勢居たと言うことだったが、私の居た収容所で死亡したのは、「腸チフス」に罹患した一人だけだった。これは伝聞なので確かではないが、捕虜にも内務省管轄の捕虜と、陸軍省管轄の捕虜との二通りがあったとの事。国境近くで直接ソ連軍と銃火を交えた部隊は陸軍省。後方にあって戦闘には参加せず、帰国の為(実は嘘だったが)集結した部隊は、内務省管轄だったと言う。給与も労働も雲泥の差があったとのことだった。私たちは後者だったらしい。

埋蔵金伝説

収容所に入ってから何回となく所持品の検査があった。最初の検査の時正直に達示通りに持ち物全部を出した者は、現金、時計、万年筆、その他珍しい品物は、日常必需品以外は、一旦預かると言う名目で悉く引き上げられた。時計、万年筆は、輸送途中でも随分強奪されたものだった。それに懲りて、警戒して隠し持っていた人は、その後地方人との接触の機会ある毎に、警戒兵の目を掠めて、現金やパン、煙草と交換した。この交換の時にはよく私は頼まれた。拙いロシヤ語でも結構役に立ったものだった。私も日本紙幣で三千円、満州紙幣で二千円ほど隠し持っていたが、度々の検査で何時発見されるかも知れないと、診療所を建てて暫くの後、壁を塗る時に、きっちりと包装して、時計と一緒に壁に埋め込んだ。その時他の人からも頼まれて、相当な金額の現金と品物を埋め込んだ。尤も後日他の収容所に移った時、掘り返す事も出来ず今も壁の中に眠っている。現在の金にしたら数百万いや一千万以上にもなるだろう宝が、遙かカザックの奥地に眠っている。こんな風なことから埋蔵金伝説は生まれるのかも知れない。

【続医療所天国】

 診療所に三人で寝泊まり (スタッフは四人だが、衛生兵の一人は夜は所属隊に帰っていた)していたが、実に気楽なものだった。三人でベッドを並べて寝るが、毎晩の楽しみは、軍医の「宮本武蔵」の物語を聞く事だった。
 軍医は、シベリヤ輸送の二カ月間、殆ど毎日その本を読んでいたとのことだった。他の連中は賭け事や馬鹿話に興じていたが、軍医は唯読書に専念。繰り返し繰り返し「宮本武蔵」を読み、すっかり暗記していた。その話を毎晩せがんではベッドに入って聞くのであった。澤庵がこう言った。又八がどうした。お通がどうだった。と声色混じりで実に面白く話してくれた。話し方も堂に入っていて、二人はうっとりとそれに聞き入ったものだった。どうかすると余り気持ちが良いので、話途中で二人共寝込んで仕舞う様な事も度々だった。そしてその都度「もうこの話しは止めた!」と怒るのだが、人の好い軍医は詫を聞き入れては翌晩も又続けてくれた。
 この医療所に時々巡察に来るソ連の女性将校が居た。階級は中尉(リチネント)女医でないので、何を視察に来るのか目的は判らないが、色々日本の事を聞いたり、ソ連の模様を話したりしていた。恐らく政治局の一員だろうと私達は話したものだった。
 身長は190センチ位はあり、体重も100キロ近くだろうと思われる実に堂々たる偉丈婦であった。年齢は二十四、五。目鼻立ちは整っている方で、体こそ大きいが寧ろ可愛い美人の部類に入れて良い程だった。
 或る日、軍医がこの女性に迫られ大慌てで私達に救いを求めたことがあった。私達の部屋に一人で居る所へ入ってきて、色々話していたが、突然言い寄られたらしい。何しく彼は50キロ足らずの優男、それがかの大女に迫られたのだから震え上がったのも無理はない。診察室に居る私達の所へ顔色を変えて逃げて来たのだった。
 暫くして彼女も診察室にやって来たが、別に普段と何等変わりなく、そんな事があったなど気振にも見せなかった。私の抑留期間三年半を通じての感想では、ソ連と言う国の恋愛、男女関係とかは実に自由、他人のそんな事には一切干渉しない。それは未婚、既婚を問わず実に大らかなものに思われた。その後数多くのソ連の人と接触するようになってからも、そんな話は数多く見聞きした。
 それに就いての詳しい事は遠慮しておくが、戦前の修身で育った我々には、想像もつかないものだった。(尤も現在の世相からすれば驚くに足らぬ事かも知れないが・・・)『反故になった遺言』


 

【伝染病患者】

 この収容所で初めての伝染病患者が発生した。東京都出身、専門学校でのインテリで、軍隊の階級は一等兵だった。痩身で顔色も蒼白、見るからに虚弱体質と思われる男だった。発熱、下痢を訴えて受診したのだが、かなり衰弱の様子だったので、入室、病状観察と言うことになった。数日間観察史だ一向好転しない。
 それどころか症状は、「腸チフス」特有の徴候を現わし、軍医は「腸チフス」と診断、一般から隔離、私が専任で看護することになった。現在ならば「クロロマイセチン」の投与と言う、絶対的治療法があるが、当時はそんな薬品もなく、唯高熱のため惹起する脳症状を防ぐ意味で、氷で頭を冷やしてやるのが精一杯の治療。
 後は本人の気力、体力、病気への抵抗力、治癒力が頼りである。私はこの患者が「腸チフス」と診断された時から、口にこそ出さなかったが「ああ、もう助からないなと感じていた。治療薬は無いし、救命設備(輸血、酸素吸入等)も全然無い。
 そして「腸チフス」は、かなり高い死亡率だと言われていたのだから。「弛張熱(一日の内、朝晩体温が二、三度上下する)の期間、熱の下がっている時を見計らって色々話を聞いてやった。勿論本人には告げなかったが、私は遺言のつもりで聞いてやったのである。まだ若い美人の奥さんと、一歳になる可愛らしい娘の写真を見せながら色々と話した。
 それから数日して予想していた通り最後の日を迎えた。遂に「腸穿孔」に因る「下血」を見た。敷布、毛布まで鮮血に染まり、帰らぬ人となった。抱きかかえて最後を看取った私も下半身血塗れとなった。お湯で事後処理を済ませた遺体は、形見の時計や手帳など身の回りの品と一緒に、所属隊に引き渡した。その後部隊は幾つにも分かれて彼方此方に移動したので、何処に埋葬されたのか、その後どうなったかも全く知らない。
つづく