満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 5
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所

【腸チフス感染】

「腸チフス」の病菌は、この排出された血液の中に一番沢山含まれている。そして、その血液を半身に真面に浴びた私が感染して、十日程の潜伏期間を経て発病の仕儀となったが何の不思議も無い。三十七度五分から八度、八度から九度と、一週間位で段々上がってくる。これを上昇期と呼ぶが、その後一週間位は三十九度、四十度の高熱が続く。これを稽留熱と言う。そして次の弛張熱の期間に入ると、朝は七度五分程度の熱が、夕方には八度五分から九度にも上がり、翌朝は又下がる。それを一週間位繰り返すのである。体力、気力の無い者は、大抵その高熱にやられて仕舞うのである。
私は一週間目位の時、その熱の上がり具合から「腸チフス」に感染したかなと思い、それから二三日程で間違いないと確信した。軍医も典型的な症状に、感染は間違いないと断言した。さあ、そうなると死ぬにはまだまだ心残りが有る。かと言ってどうする事も出来ない。唯こんな所で死んで堪まるかと言う思いだけは固く抱いて居た。併し、若しもの時にはと、母とたつた一人の妹には遺言を書いた。詳しいことは覚えていないが、兎に角、こんな所で死ぬのは残念だが、これも定まった運命だろう。この上はお母さんも私の分まで長生きして下さい。そして妹には、母を宜しく頼む。位な事を書いたのだろう。封をすると軍医(山口県宇部出身)二「軍医殿。故郷には母が一人で住んでいますから、帰還したら訪ねて私の最後の模様を伝えて下さい」と頼み、その遺言書を手渡した。
ところがである。不思議に高熱が続いても、錯乱する様な事も無く、その内に次第に熱が下がり始めた。軍医も不思議がったが、兎に角喜んでくれた。体力が勝ったのか、神仏のお加護か、兎に角十日程ですっかり回復した。もう大丈夫と軍医は「もう要らなくなって良かったな」と預けてあった遺言書を返してくれた。


俺には守護神が

私は軍隊に入る前からでも、非常な逆境に立たされて、もうお仕舞いだと思っている時に、必ず予期もせぬ不思議な事が起こるのだった。そして事態は一挙に好転する。軍隊に入ってからでも、自分の不都合が原因で転属させられたが、そから一カ月もしない内に、原隊は動員が下って、フイリッピンに向かい、上陸もしない儘、リンガエン湾で撃沈され、部隊は全滅した。この時も「ああ、運が良かったなぁ」と思ったものだった。「腸チフス」に罹った時も、殆ど助かる見込みはなかったのが何故か助かった。
私は前々から、『俺には守護神がついていてくれる。どんなに落ち込んだ時でも、最悪の事態になったときには必ず助けてくれる』信じて来たのであるが、この事が有ってから愈々確信を深めた。以後五十数年、その間に何度も同じ様な事があつたが、その都度助けられた。だから守護神様のことは信じ切っている。
お陰で何事をやるにも自信を持てる。本当に有り難い事だと感謝している。


医療室を、お払い箱

激しい下痢で、お腹の大掃除が出来たせいか、全快後の食欲は実に旺盛だった。病人の特別食は普通の人より量が多いのだが、それが一人前では足りず、食欲の無い他の人の分まで食べたものだった。治癒してから二カ月後には、前より五キロも体重が増えた。 
 何しろ食べるのは人の二倍、仕事と言っては体力を消耗するような力仕事もしないので、肥えるのは当たり前。ところがそれが良くなかった。全快してから三回目の身体検査で、ペールウイ(一級)と判定され、早速炭鉱行きグループに配置され、医療室を、お払い箱になって仕舞った。『しまった!』と悔やんだがもう遅い。翌日からグループの人達と坑内に入る事となった

【炭 坑 内 】

 炭坑へは警備兵二名がついて、300b位の距離を往復する。一交代三十五名位で三交代制であった。愈々生まれて初めて炭坑と言うものの中に入った。
 炭坑は深さ30b位の浅いもので、昇降機(石炭巻き上げと共用)でほんの僅かの時間しかかからない。坑道の両側はお粗末な坑木(レース)を立てて支えてある。幅は3b位で、中央を運搬様トロッコの線路が走っている。20b置き位に、大きな鉄板が敷いてあって、トロッコの離合や方向変換が出来るようになっていた。
 坑道の高さは、せいぜい1b80か90、背の高い人は頭が支えそうな有様。単層は厚いテコ路で1.5b位、薄い所になると60a位の所もある。中央の坑道から無数の横道が有り、これを掘り進んで行く。そして予め運んである坑木(レース)を適当に立てて行く。炭質はとても軟らかく総て手堀である。
 坑道が浅いせいか、ガスの発生は全然無い。爆発の危険性が無いので、照明は石油ランプの裸火で、煙草も自由に喫える。掘った石炭は線路和気まで書き出すと、運搬係がトロッコに積んで、巻き上げ機の所迄押して行く。実に前時代的作業である。
 各人にノルマ(標準作業量)が課せられていて、それ以上に成果を上げると、仕事量に応じて増食のパンが貰えるので、そのパンに釣られて皆良く働く。ノルマ以下の日が何日も続くとプロホ・ラボーター(不良労働者)として処罰される仕組みになっている。


作戦成功

 
《因に運搬係のノルマは、200bの距離だったらトロッコ35台が一日のノルマである。歩くだけで14000bで有るが、トロッコ1台0.3‰の石炭(ラパートカで120杯)を自分で積んで運ぶのだから、100%はとても覚束ない。それに脱線・転覆等もある》。
 今迄力仕事をした事の無い私にとっては、超重労働に思われた。二日程働いたが、ノルマにはとても覚束なくへとへとに疲れた。二日目の夜帰ってからベッドで色々考えた。『この儘今の状態が続けば何れはバテて病気になる』と。実際炭坑で働き過ぎて過労、衰弱で診察を受けに来た人を何人も知っていた。
 『何もここでスターリンの為に体を犠牲にしてまで働かなければならぬ義理は無い』『何とかして坑内から出て地上作業の方に回される様な方法は無いか』と色々考えた。そして三日目それを実行に移した。現場に到着してそれぞれの持ち場に配置された。
 坑内はマッセル(現場監督)が始終見回りに来る。最初の見回りが済んで暫くしてから、持っていた石油ランプを吹き消して真っ暗な中、切羽の前に座り込んだ。どの位経っただろうか、見回りの灯が近づいてきた。そして座り込んでいる私を見つけると「何だお前は、どうしたんだ」と声を掛けた。私は「ランプが消えてしまったので灯を貸して下さい」(本当は煙草を喫うのでマッチは持っていた)と言うと、自分のランプから灯を移してくれた。まっセルが立ち去って暫くして又灯を吹き消した。
 三十分もすると、又マッセルが回ってきた。「マッセル。又消えてしまった」と灯を貰った。そして又前と同じ様にして座り込んでいた。三度目はマッセルの顔色も変わり罵声が飛んだ。「ヘイ(おい)お前の様なロードリー(怠け者)はニナーダ(要らない)!。早速ナチャイリニク(収容所長)に報告して、チュリマー(監獄)だ!」と、怒鳴りつけると、腕を引っ張って坑外に連れ出された。
 作戦成功これで二度と坑内に入らなくて済む。地上作業なら空気も良いし仕事も楽だ。チュリマーのことは、こんな事位では入れる筈はないし、若しそんな事態になったら、隊長が何とかしてくれると多寡を括っていたので、大して気にも止めて居なかった。果たして、帰ってからも、翌日も何のお咎めもなかった。完全に私の作戦勝ちだった。

【坑外勤務・グルーシキ】

 坑内に入らなくて良いようになってから、私の就いた仕事はグルーシキ(積み込み)と言う、馬車や橇で、地方人が石炭(ウーゴリ)を取りに来た時に、ラパートカ(スコップ)で積んでやるのだった。このグルーシキは四人が一グループとなって三交替。この十二名は炭坑小隊とは別個で、監視兵もつかない。
 交替毎に、三十歳位のロシヤ人女性(名前はワーリヤ)が、送り迎えしてくれた。仕事の済んだ私達グループを連れて帰ると、交替の四人を引率して炭坑へ帰るのだった。
 幾つにも積んである石炭の山の直ぐ近くに在る三畳位の広さの小屋が、グループの詰所だった。真ん中に大きなペーチカが在り、小屋の片隅に小さな机と椅子、それがワーリヤの定位置だった。三方の壁に添って長い腰掛、我々はそれに腰を下ろして、石炭を取りに来る人を待つのであった。
 取りに来た人はワーリヤに何か話し、何かノートに書いているが、代金などはどうなっているのか全く知らない。尤も総て国営で、何でも国のものであり、自分たちのものでもあるらしく、其処のところの観念は私達には理解出来ない。

国の物と言う事は我々の物

 それに就いてこんな事があった。ラーゲル(収容所)の中では麻雀が盛んであったが、炭坑やグルーシキの交替勤務の非番の者達は、夜昼お構いなしで四六時中誰かがやっていた。或る晩十二時も過ぎた頃、夜間巡視のロシヤ人将校がやって来た。
 「夜中に騒がしくすると他の人が眠れないではないか。直ぐ止めろ」と、尤もなことを言った。ところがその後がいい。「若しやりたいのだったら俺の言うことを聞け。それに従えば朝までやっても良い」と交換条件を持ち出した。
 それはラーゲルから余り遠くないところにある、建築資材集積所から木材を運べと言うのである。「自分が今度家を建てるから其処へ運べ」と言う。「何だ!それは泥棒ではないか。そんな事をしても良いのか?」と尋ねると答えが奮っている。「あの資材は国家の物である。国の物と言う事は我々の物である。俺が家を建てても国家の物だ。だから俺が黙って持ってきても良いのだ」とのたまう。
 若しこれが正論なら何も夜中に人を使って運ばせることはなかろうにと思ったが、別にこちらの腹が痛むわけでは無しと条件を呑むことにした。「ノルマは一人二本だ。五人居るから十本運べ」迄は良かったが、その後に続けて「但し誰にも見付からぬようにしろ。
 若し見付かっても俺の命令だと絶対言ってはいけない」と、筋の通らぬことを言った。兎に角、材木一本を二人で担いで、十本を運び終わると、朝迄大っぴらに麻雀を続けた事があった。こんな風で、物の所有権は一体どんな風になっているのかさっぱり解からない。

 

【ホイサッ!ホイサッ!】

 話はグルーシキのことに戻るが、八時間勤務している間に、普通の日は十回ぐらい、夜勤の時などは三台も来れば良い方。一回積み込むのに十分程なので、実に楽な仕事である。仕事の無い時は集まって馬鹿話をしたり、表に出て辺りを歩き回ったり、巻上機の所へ行って、巻上方と話し込んだりして時間を潰した。
ワーリヤも退屈らしく、机に俯して転た寝をしたり、私達に話しかけたりした。時には家から、飴玉(カンフェークト)やパンを持ってきてくれ、それを食べながら色々な話をしたり、又私達も日本のことを色々と話したりした。
 日本の女性がどうであるかは詳らかに承知していないが、ロシヤ人の女は裏表が実に甚だしい。他にロシヤ人の居る場合には私達が一寸でも、下がかった話をしようものなら、柳眉を逆立てて激怒する。
 或る時、ナシルカ(箱型運搬器)を二人で運ぶ時、普段のように「ホイサッ!ホイサッ!」と掛け声を掛けながら急ぎ足で運んでいた。ところが、突然辺りに居たロシヤ人の女性が「オオッ!ドーラク!チョールトイ!」(馬鹿者!気違い!)と怒りだしたのである。こちらは何故怒り出したのか見当も付かないので呆然としていた。後でロシヤ人の男にその事を話したら笑いながらその訳を教えてくれた。「ホイ」はロシヤ語で男の一物のことだそうだった。ワーリヤも他にロシヤ人が居る時には、決してそんな顔は見せないが、相手が我々ばかりの時には、がらりと変わって結構際どい話しもする。こちらも面白、可笑しく話すものだから大いに盛り上がる。その内容を書くわけに行かないのが残念だが・・・。

つづく