満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 9
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所

 『収容所での楽しみ』
収容所での楽しみは、気の合った数名が集まっての雑談。夫々の奥に自慢、家族の話、軍隊時代の思い出、珍しい体験談、その頃はまだ在った花街の話、殊に食べ物の話となると特に力が入ったものだった。又月に二回くらいはマジャールのコンサートが開かれた。結う食後の大食堂にステージを設け、一時間半くらい演奏、コーラス、ソロと色々だった。楽器は殆ど手製だが、専門家が居たのかどれも良い音色だった。歌もプロ並み、殊にソロのバリトンは素晴らしいものだった。マイクなど無い大食堂の後方まで響き渡るその声量には圧倒された。聞きに行きたければ行けばいいし、嫌なら部屋に残れば良い。マジャールと言う人種は余程陽気な人達と見えて、抑留されていると言うような気配は微塵も無い。私達から見ると一寸軽過ぎるなと言う感じ。それに引き換えニィメッツ(ドイツ人)の方は見るからに重厚、一寸寄り付き難い程、笑い顔など滅多に見せない。
 【負ければパン抜き】
乏生活が永かったせいか、経済観念も非常に強いなと感じた。給与の中に一日8gの砂糖がある。甜菜糖だから蔗糖の様に甘くはないが、パンに付けたり、カーシャ(お粥)に入れたりするので皆が結構欲しがった。ニィメッツはその砂糖を貯めて日本人の処に売りに来る。現金やパンと交換して行ったものだった。その他手製のスプーン、フォーク、ナイフ(これは禁制なので内緒で)とかを売りに来た。 一般娯楽は、囲碁、将棋、麻雀がすごく盛んで、誰もがその内の一つはやっている程だった。碁石や将棋の駒は、何組かは持って来た物もあったが大半は手製であった。碁石は、粘土に石炭の粉、石灰粉を混ぜ練り固めて乾燥させたもの、麻雀牌は白樺材の手彫であった。京都で仏師だったと言う人が居て、実に見事なものだった。持って帰れるものなら持って帰りたいなと話したものだった。麻雀では現金を持っている人が少ないので、賭けるのは食事に付くパンが主だった。又砂糖、煙草を賭ける者も居た。勝てば良いが、負けが続くと、三日も四日もパン抜きと言うことになる。私は割に勝ち運に恵まれていて、何人分ものパンが手に入り、一緒に居る若い者に回し、代りに洗濯などを良く頼んだりしたものだった。炭坑に入る組はパンも砂糖も、一般より五割増しの給与、ノルマをぐんと上げると若干の報奨金まで貰える。それを狙って良く誘い込んだものだった。勤務時間もまちまちだったので、一日中、何組かは「チー・ポン」とやっていた
怖い雪・嬉しいマローズ』
何しろシベリヤの吹雪は物凄い。大体雪がさらさらで、手で握っても固まらないくらいなので、強風(ブラーン)に煽られて巻き上がると、視界が全然利かない。一列に並んで歩くときも、前の人の上位の裾をつかんで進むのだが、その自分の手の先が見えない。勿論前の人の背中など全然見えはしない。だから誤って掴んでいる手が放れたら中々掴めない。現に炭坑に行く途中、一人が転んで前後共に放れて行方不明になった事がある。他の者が炭坑に着いてから、一人足りないのに気づき、炭坑の位置を知らせる為、頼んで三十分置きに汽笛を鳴らしてもらったが、とうとう朝まで現れなかった。翌日昼頃ブラーンが収まって、捜しに出てみると、炭坑から30mとは離れていない場所で凍死していた事があった。 そんな風なので、ブラーンの日は、炭坑、工場以外の屋外作業は休みとなる。又気温がマイナス二十度以下になると、屋外作業は凍傷の虞れがあるので休止となる。朝正門の処に整列すると、ソ連の労働係と衛生係の将校が居て、温度計と睨めっこをしている。労働係はなるべく仕事に行かせようとする。衛生係は規定通り仕事を休ませようとする。だからマイナス二十度前後の時は盛んに言い争っていた。労働係は「今二十二度でも、もう少しすれば温度は上がる。だから仕事に行かせる」と言う。衛生係は「駄目だ!ちゃんと二十度と言う規定があるのだから絶対行かせない」と頑張る。そしてたいてい衛生係の価値となる。衛生係将校が、右手を挙げて大きく横に数回振って『ヘーイ・イッジィ・ダモイ』(オーイ!兵舎に帰れ!)と叫ぶと、待ってましたとばかり「わーい!」と歓声を挙げて走って帰る。これで今日は休みとなるので一日中勝手なことをして遊べる。実にマローズ様様であった。冬期(十二月から三月)にはこんな日が月二、三回はあった。日曜が休みなのでそれに加えると、結構休みは多かつた。それで皆は
「寒くなれ!」「風よ吹け!」と願ったものだった。

 
【市場の出かける】
月に一度くらいは、監視兵が一名はつくが、十人くらいで町のバザール(市場)に買物に行くことを許されていた。現金を持っている者は良いが、持たない者は、色々なことを考えつくものである。町では砂糖の少ないことに目を着けたものは、支給された砂糖を貯めたり、人から譲り受けたりして持って行く。ツェーレンと言う工場に行っている男は、アルミとジュラルミンとかで、スプーン、フォークなどを作って持って行った。仕上げ工で腕利きだったので見事なものを作っていた。材料は鉄道沿線に幾らでもあった。それはソ連軍がドイツ本土を席巻した時に押収したもので、後々シベリヤ鉄道を電化するときに使う予定で、鉄道で運び、投げ落としておいた電線であった。これを持って帰り、缶詰めの空缶で鎔し、耐火煉瓦で作った鋳型に流し込んで作るのだった。鑢で大体の形を仕上げると、今度は歯ブラシの柄のセルロイドを利用して象嵌細工を施すのであった。愈々仕上げて磨きをかけると、象嵌の赤、青、黄色、紫と色とりどりの花が咲いた様で、目を見張るばかりの出来栄えだった。バザールに持って行っても人気上々、娘の結婚式に使うからと追加注文がある程だった。交換するのは主に煙草、パンなどであった。マホルカと呼ぶ、煙草の茎を刻んだもので、ガゼータ(新聞紙)を細長く切ってこれにマホルカを載せ、くるくる巻いて喫う。パピロスと言う細身の巻煙草もあった。ペルシキと呼ぶ餡入りのパンがあった。餡と言っても赤い砂糖大根をつぶしたものである。黒パンに比べると粉の肌理も細かく(恐らく麸は取り除いてある)焼き方も違うのか味、風味ともに抜群であった。又、絞りたての牛乳(モロコ)、バター(マースロ)、ヨーグルト(キースロ)なども買った。金を持たない者でも、何処でどう都合して来るのか、シャツ、タオル、石鹸、布地などでそれぞれ交換した。着いてきた警備兵も鷹揚なもの、警備などそっちの気、其処らにいる娘たちとふざけ合っていた。
つづく