江戸時代(徳川幕府)の時代に公儀に大名家が国境紛争を起こしたなどと知れたら御家断絶になる可能性がある訳で表向きは穏やかでした。
しかし、紛争とは土地の人間(郷士・お百姓)が行うことを言ってる訳で大名家の喧嘩を言ってることではないのです。

大名は紛争を止める役目をしないと御家の大事になるのです。
外様大名の福岡藩(黒田家)は公儀に対してピリピリしてる訳で、隣接の譜代大名の小倉藩(小笠原家)の協力が不可欠なのです。

戸畑に住んでいたおじいさんの話で「隣の軒からの雨だれが、自分の庭に落ちる」と言って隣と喧嘩する位の気性が荒い人たちが居たと言うことなのです。
排他的で隣村の争い紛争の多い土地だから、国境石が多く必要になったのだと思います。

ここ北九州市は、ほぼ中央から東西に豊前国と筑前国に分かれてました。
江戸時代の中期には小倉藩と福岡藩により、多くの国境石が建てられました。
とくに両藩の国境紛争多発地域の戸畑区中原から八幡東区高見・田代には多くの国境石を建て境界を明らかにしました。
市内の国境石の多くが移設あるいは減失したなかで、当時の位地に保存されてる国境石は江戸時代の国境を知るうえで貴重なものです
江戸時代の狂歌師太田南畝((蜀山人)1749〜1823)は、文化2年(1805)に記した小春紀行
「右の方に自是西筑前領、左の方に自是東小倉領と記せる石表あり。」と描写しています。

豊前の国の国境の住人からは、北九州市の情報や川柳・中国古典・歴史・物理・戦争と平和など趣味のホームページとします。

三条国境石

「これより西筑前の国」と書いてある、この大きな国境石は三条に住む北九州市長さんのお家の隣にあります。
 「一番でかいチ」

 チは方言で語尾につきますチ。
 金比羅池の国境石

金比羅池にある玄武岩の石碑には、
「従是西筑前国」
「遠賀郡中原村抱」
「文化十四年丁丑三月 再建之」
とあり福岡藩が建てたものです。
福岡藩の祐筆の二川相近の書だと
北九州教育委員会は言っている。
       (下の説明)
 金比羅池の
  国境石


これは公園の池の中にある国境石で戸畑区にあります。
近くには大きな体育館があり、巡業相撲があったりして、障害者のバスケットボール大会などもありました



  
   国境石は争いから発生した争いを止めるルールの様なもの
   破る気になれば破れるし、守れば争いは無くなります。
   人の心の問題なのでしょう、必要悪でしょうか?