更新 2005.5.5

山口のおじさん

 先祖は、徳川直参の武家で、「彰義隊」に加わり上野の山で官軍と戦い、函館五稜郭戦ったそうな。
 父上は、静岡税務署長で兄二人姉一人弟一人の腕白小僧として育った。
 小学五年の頃に父上の妹(とら女)の嫁いだ山口の家に養子に入っり工業高校を卒業し紡績会社に就職した。昭和六年の徴兵検査で甲種合格で「どうせ軍隊に入るなら兵隊よりも将校だ」と思い幹部候補生に志願した。そして、和歌山県加太町にある深山要塞重砲兵連隊に入隊し、昭和7年12月1日陸軍軍曹で営門を出て翌年見習い士官の試験に合格し、次回召集の時には陸軍少尉の資格が与えられた。

妻のまさおばさん

 酒井萬吉の三女子で酒井亀太郎(長男)の妹(可福のおばさん)にあたります。徳川の家臣のつながりの縁で結婚話が出来上がってたのでしょう。

結婚・召集

 昭和12年2月21日25才のとき酒井まさ21才と結婚したが、同年8月1日の召集令状が来た。

 おじさん自慢の影秀(備前長船の実弟)の持ち、静岡県三島市の野戦重砲兵連隊(三島の野重)の営門をくぐっりました。 叔父は、独立野戦重砲兵大隊(大隊長西田少佐)の少尉で連絡将校をしていました。

三島野戦重砲兵連隊(三島の野重)

 荒くれが多く、独立大隊はどの師団や旅団にも属さない、命令一つで何処の戦場にでもいく部隊です。
 独立野戦重砲兵大隊は、十二糎榴弾砲の戦闘部隊で一門に付き二十四名で運ぶ人力輓曳で長い綱を砲につけて分隊長の掛け声で「一二・一二」と引っ張り、戦闘は八名が砲手で十六名が弾薬を運ぶ兵員となります。大隊は三個中隊編成で、各中隊は二個小隊で編成しており、小隊は四個分隊で編成してました。(各分隊に一門の火砲を二十四名で編成)ほかに、段列として輜重兵一個小隊(4個分隊)約100人を編成に加え1個分隊には20車両があり食糧弾薬を運ぶ役目でした。
独立野戦重砲兵大隊(西田部隊)は二十四門の十二糎榴弾砲に約600人程の戦闘部隊でした。

最後の別れ

 西田部隊は、昭和12年8月8日に三島駅貨車ホームに火砲弾薬を運び、8月9日隊列を組んで三島大社に武運長久祈願をおこない、その三島駅に向かいました。第1回目の出征部隊に対して沿道には三島市民や家族の小旗があふれ「万歳・万歳」の声援の中を三島駅から軍用列車に乗り込みました。

 列車は西に向かい、沼津駅に停車ホームにも見送りの人があふれ惜別のコマがみられました。静岡駅で、将校はデッキにおり見送りの歓呼に応えているとホームの角に来ていた妻のまさと家族との最後の決別ができました。

命令の伝達

 列車は神戸に着き輸送船に乗り換え瀬戸内海を西へ西へと航行していった。船が出港してから6時間後に命令書の開封せよの軍の命令があり、部隊長が開封し将校に「西田部隊は中支那・ウースン港より上陸し、中支派遣軍片山旅団の指揮に入り、所在の敵を殲滅すべし」の命令を受ける。秘密の漏洩を防ぐため輸送船の上で兵隊に行き先を始めて知らせるのでした。

 召集してすぐ出征で、訓練する時間が無く兵達は船上にて、訓練することになった。

敵前上陸

ウースン港は揚子江をさかのぼり上海に隣接し砲台の敵陣があり、歩兵部隊が釘付けになっている地点が上陸地点で、夜間に第一中隊第1小隊の4門を上陸させ、第2小隊4門を船上設置してトーチカ攻撃することになった。夜が明けて敵のトーチカを確認できる様になり8門一斉に砲門を開き、粉砕した。

 更に上海の飯田桟橋から敵前上陸の命令がでた。飯田桟橋は勇猛かかんな第三師団の静岡歩兵第三十四連隊長の飯田大佐の部隊名でここの敵前上陸では飯田大佐を始め多くの戦死者を出した。

 上陸し、片山旅団の司令部を、屍を越えて探しやっとたどり着くと「待っていたぞ」と戦闘命令がでる。

戦闘開始

 連絡兵に旅団命令書と地形図を持たせ自隊に帰隊させた。命令は「6時に敵陣に西田部隊が砲撃開始30分後第一線歩兵部隊の突撃に合わせ逃げる敵に追撃の砲撃を行う」でした。

西田部隊は二個中隊で砲撃を一斉に開始し、一個中隊を予備に残しました。敵の応戦発砲により敵砲兵の所在が確認でき第三中隊が砲撃しました。首尾良く敵の砲兵を殲滅できた。

上海平野は山や丘が無く敵を一望出来る観測所に屋敷の屋根などを使用したが敵の集中砲火の目標になってしまた。 やまぬ雨で足を取られながらの戦闘は砲撃戦となり砲火を浴びながら自隊の当番兵が運んでくる弁当を日に1〜2回の食事をむさぼり喰った。連絡将校のである山口少尉は機関銃弾がビューンビューン聞こえる戦闘の中を観測所から大隊本部・司令部とかけずり廻っていた。

 観測所に饅頭形の墓を利用し、目標の敵機関銃座を探して居るとき、突然シュルシュルと敵の野砲弾が飛んで来た。前方50m付近に着弾破裂・次が30mほどに着弾「これはあぶないぞ吾々を狙っている」と後退を促していたときに、シュルシュルの飛来音に、破裂音がし、観測兵が吹き飛び腹をえぐられ、将校は弾丸の破片で鉄兜を貫き頭部から血を吹きだし、一人の兵は片足を股から吹き飛ばされ、もう一人は胸部と腹部に破片でやられ仰向けに倒れた。鉄兜の頼りなさを実感した。

大場鎮(だいじょうちん)総攻撃

 大場鎮に立てこもるのは一九路軍で戦車・火砲・軽火器を総動員しての抵抗で、吾が軍は損害が増加するばかりで前進できなかった。上海方面軍は新たに三方攻撃を実施した、西側に海軍陸戦隊・南に上陸部隊があり、部隊半分を東側に迂回させた。迂回したのは片山旅団でその軍に属していた。

片山旅団が東に迂回するとき、ゲリラ(便衣隊)が出没し挟み撃ち攻撃に合い損害を多くだした。

片山旅団は「たとえ女子供であろうとも怪しいと思えば捕らえ、或いは射殺せよ」と命令がでた。

両軍が撃ち出す砲弾で破壊炎上する民家・ゲリラか一般市民か分からぬ死体が散乱凄まじい状態であった。三宅の夜はゲリラの夜襲があり、砲兵隊には小銃が無く応戦出来なく歩兵中隊に応援要請に走った。

連絡将校直々に各中隊に傅令に出て、下士官や兵の信頼を呼び率先垂範いい結果になった。

協力部隊の歩兵第68連隊の第2大隊本部付近で農民か便衣隊か分からぬ男が沼地の中で口から血を吐きながらの断末魔にあった、山口少尉は哀れに感じ連絡兵に「おい、あの男の頭を撃ってやれ」と命じた。

左胸部盲貫銃創

 10月1日大場鎮攻撃西田部隊は歩兵部隊の協力の砲撃をするため前線に押し出した。

 敵の第一線には機関銃座が配列されており、吾が方は釘付けになっている。丁度第一線に出ていた山口少尉に第一中隊一の砲撃の観測指導を命じられ、目標は敵の機関銃座で観測所を鳥居野砲大隊の観測所を借用した。機関銃座を一つ二つと砲撃し機関銃座から敵が逃げていくのを砲隊鏡でのぞき、更に残った銃座を狙って砲撃したが、敵に気づかれ観測所に激しく銃弾が飛んできた。敵銃座を制圧した頃、鳥居少佐が来て「なかなかうまいじゃないか」と肩を叩いてくれた、そのとき突然胸を丸太で叩かれたような衝撃を、そして痛みと苦しみを感じた。

 鳥居少佐は「やられたか、胸だがしっかりせよ、傷は浅いぞ」「オーイ山口少尉がやられた。兵二〜三人昇ってこい」と叫び、櫓からおろされ、鳥居少佐の手配で付近の軍医少尉が駆けつけ傷口に仮包帯をし胸のボタンに赤色の荷札をつけた。荷札には「左胸部盲貫銃創」と書かれていた。

 電話連絡を受けた自隊の本部から衛生兵と四〜五人の兵が駆けつけ竹を切ってきて個人用の天幕で担架を作り野戦病院に運んだ。

 第一野戦病院といっても、朽ち果てた民家で薄暗く衛生兵が戻ってきて「今混んで居るので暫く待って下さいとこ事です」といった。30分ほどして担ぎこまれた一室は手術室で弾丸の摘出手術をうけた。

 銃弾は心臓の横を通り肋骨にあたり背部で止まった。運がよかったが、戦傷が同盟新聞では戦死と報道され、会社や留守宅は戦死の報告を受けた。

 三〜四日、第一野戦病院に入院し治療を受けたが上海兵站病院に移された。

銃声も無く美人看護婦がいる病院生活の一ヶ月が過ぎ、つぎつぎと入院してくる負傷兵のため、後は自隊で治療を受けよとのことで退院が決定する。

 病院前に原隊復帰ようのトラック着き、退院者は前線に復帰するのである。前線に近づくに従い砲声も多くなり、一人下車・二人下車とだんだんトラックから減っていくのである。

 兵站司令部前で下車し、西田部隊の所在を探し聞き、大場鎮がまだ陥落してないを知る。

蘇州河渡河作戦

  兵站病院から退院して、撃たれる前は「俺は神助があり敵弾には当たらない」と思っていたが、弾がビュンビュン飛んでくると「自分めがけて銃弾が飛んでくるように思えてならない」恐怖心がつのるばかりでした。

 敵にも見えるように、西の陸戦隊の方では{日軍百万杭州上陸}のアドバルン高く昇っていた。事実百万はオーバだが杭州上陸し挟み撃ちの作戦が進んでいた。また二十四糎要塞砲を導入し、大場鎮が陥落した。 敵は北側から敗走し、それを追って上海派遣軍は南京追撃戦に入っていくのでした。

 西田部隊の追撃は「一二一二」大砲を人力で引いていくので、追いつくのに一苦労でした。

敵は、上海の東部に流れる蘇州河にかかる橋を爆破し追撃をくい止めました。そのため追撃隊はここでとまり、敵は対岸の日本の豊田紡績の工場に立てこもりました。工場の前はコンクリートの壁があり、後ろは各国の大使館が建ち並びなかなか攻撃しにくい陣地となってしまいました。結局肉弾攻撃しかなく岐阜第68連隊第一大隊(鷹森部隊)が鉄舟で夜陰に乗じて隠密渡河作戦を行ったが、敵の機銃や手榴弾で戦死者続出しました。

そこで、大場鎮でも特別な働きも出来ず追撃戦で足手まといだった西田部隊が対岸からコンクリートの壁を崩すように片山旅団長より言われた。部隊に戻り「部隊長の意見を伺い再度参ります」と引き下がる。部隊長は「まあ、やるより仕方あるまい」と言う返事で、 夜間に二門の砲座を用意し翌朝6:00攻撃開始した。敵に打撃を与えたが、機銃で反撃され砲撃ができなくなり、夜間砲撃に方が有利とし、更に二門を設置し午前1:00から砲撃を開始した。敵が沈黙して岐阜第68連隊第一大隊(鷹森部隊)が鉄舟で渡河し、また上流を渡河した第11師団の横腹を突く攻撃で総崩れとなった。

上海南市掃討隊

 上海南部の列国租界に面した市街地に立て籠もる敵を撃退する作戦を行った。市街戦は歩兵と戦車との共同作戦で実施されるが、部隊の逸見戦車隊は南京追撃戦に参加し、片山旅団では歩兵部隊と西田部隊(砲兵)で展開することになった。砲兵隊は、ビルや屋根に隠れて、隠れる所のない追撃する吾が方を狙撃する敵の機関銃座や火器・手榴弾などに対し、歩兵隊の要請を受け砲撃する任務でした。

作戦が始まると、連絡将校には歩兵の各隊から「一門くれ」「一門配備」の連絡が絶え間なく続きこれはたまらんと、部隊長に歩兵大隊毎に一門の火器を配備し、各々大隊毎で要請に応える方法に決めて頂いた。連絡将校としては総括をまとめ旅団と西田部隊の連絡だけになり、とき折り残敵を見て歩いた

ある日、商社らしき三階建てに2~30名程の敵が立て籠もり応戦しており見方の歩兵に負傷兵続出していた、わたしが後退したとき折良く遭遇した第一中隊の火砲一門を以て、攻撃中の歩兵を一時後退させ二階と三階に各一発ずつ打ち込んだ後に歩兵が突入し残敵を攻撃した。

この市街戦が一ヶ月程続き、敵の大部分は租界付近に武器弾薬を放棄して列国租界に逃げ込んだ。

お陰で、小銃でさえ人員の1/3位しかなかった西田部隊の武装強化が出来た。

 上海巡察の戦利品(分捕り品)

 一応掃討の終わった頃、西田部隊は上海中央大学跡を部隊宿舎とした。下士官兵10名を従い市街の残敵探求に出るときは、道路の左右に兵を配備し狙撃に備え銃を構え街を巡回し、支那人を尋問し怪しき者は捕まえ、民家に踏み込み内部を探索した。

 残敵探求で食料品工場の倉庫に入った時、甘いゼリーがぎっしり詰まっており甘味品が乏しい時期であり、兵の雑嚢やポケットがいっぱいになる程、
持たせ帰隊させた。部隊長に巡察結果報告をしたら、早速
30名程と輜重車10輌で部隊に運び込んだ。

 兵たちは大喜びしたが、片山旅団に報告した事もあり菓子工場は軍管理になり二度と持ち出しが出来なくなってしまった。

 早川・佐藤少尉の巡察隊はビール会社を見つけ,山ほど搬入してきたが、どうした事かその夜にビール会社は火災に遭った。

 また、巡察のとき纏足の老婆に遭いゼリーを一握り渡したが笑み一つ見せなかった日本人を憎んでいるのか? 天秤棒を担いだ
40才程の男を尋問すると「商売に行く」と大声で笑い挙動不審な所があった、「よし行け」と言うと二三歩歩いて一目散に走りだしたので兵に「撃て」を命じたが後味が悪い。

 商店の裏ガレージでフォードの乗用車を見つけ、修理し部隊に乗って帰り部隊長に報告したら、即部隊長用となってしまった。分捕り品の車輌は早川・佐藤少尉の巡察隊も合わせて乗用車二台トラック一台自転車六台となった。各中隊もトラックの分捕り品があり後日役立つことになる。

 内地からの軍事郵便・慰問袋

 軍事郵便が当隊にも配布され、私にも二通来ていた。一つは内地を出たころの物で「お腹も大きくなってきた。社宅が代わった里から母が着てくれている」内容のもので、後の一通は戦傷後のもの「戦死報告で大騒ぎしたが戦傷でホットした。出征軍人の家で親切にしてくれる」との内容で内地からの手紙は清涼飲料水のような清々しい気分になる。また駐留すると良い事が多い、慰問袋が隊に配られた。

手拭いを縫い合わせ慰問袋と墨で書いてある物を一つ割当てられた、中には飴玉・歯磨き・石けん・落花生・手紙が添えてある。小学校三年生山田みよ子ちゃんのもので「兵隊さんご苦労さんです。頑張って・・・」と可愛い文字で書いてあるうれしいかぎり、そのご両親のことを思い忍ばれた。

 兵たちもニコニコガヤガヤ大変な騒ぎで慰問袋の良いもんだと思う。

 給料と写真機

  同期の早川・佐藤・杉山・清水・山口の五人の少尉が久しぶりに集まりビールで健闘を祝した。上海の日本人街の写真やに部隊長の軍用証明があれば購入出来る情報を得た。「俺たちも買おうではないか」との事で佐藤少尉が部隊長に申し出ていよいよ購入することになった。

 金は、部隊の経理室から部隊全員のそれぞれ給料を支払われているが、戦争中のこと金を使う場所がない、経理室では預かっていたらきりがないから各人で保管するように言われ無理矢理渡され、千人針の袋に防弾用に入れて横腹までいっぱいになり帯刀も締めにくいとこで、軍はなぜ留守宅に送金しないのだろうと思っていた時で資金はあった。

 写真屋は英国・フランス租界の横を通ったとこにあり、租界地は有刺鉄線を二重に張った中で派手な服装の女子供の姿も見え平和そのもので、こちら側と雲泥の差であった。写真屋には日本の将校がいっぱいであった。結局ドイツ製のローライコード(縦のぞきの二眼式)とフイルム現像液などを購入したが、現像の水の条件など難しい事ばかりであったが、腹巻きの札束が半分になったのでホットした。

  南京進駐

 中支派遣軍から片山旅団に西田部隊は第11師団に協力せよと急遽南京へ転進命令が出る。

 西田部隊の本部指揮班と中隊主力は上海―南京を開通した鉄道で移動することになった。

 残余部隊はトラック13台と旅団警備隊一個小隊の援助で陸路南京に向かった。山口少尉は自動車隊の尖兵小隊長となり、自動車隊の2km先を戦利品のフォードと警備部隊のトラック1台走行することになった。 夜は車輌を円形に集結し野営した。
 山間に差し掛かったころ材木による障害物が路上に散乱していた、障害物を排除してると、銃撃してくる敵を発見する。応戦を始めたが敵は本隊くるのを見て逃げた。また河の橋が破壊されていたので、河の両岸に各々
20の警備をおいて水深の浅い場所をわたった。
 西田部隊が鉄道基地到着する前に南京は陥落したが、西田部隊は第
11師団を追求し出発した。

自動車隊も鉄道基地に到着し片山旅団の警備部隊および輜重隊と別れ本隊を追いかけた。

いわゆる南京虐殺は有ったのか無かったの聞く事もなく、新任務の杭州に転進することになった。

 杭州転進

  杭州湾に上陸した我が軍は南京に向けて進撃し、杭州にはわずかな守備隊だけが残っていた。任務は機動力のない西田部隊は守備隊の援護であった。南京駅から無蓋車に乗り杭州まで坦々と平野を走り続け翌日杭州駅についた。

 このあたりの敵は集団強盗のようなもので時折守備隊を襲う位でした。西田部隊は城内巡察警備を担当しましたが何事もなく、杭州市は平穏でした。12月も押し迫ったころ西田部隊に突然上海に転進命令が下りました。

 上海駐屯

  「一二一二」の砲火を引き行軍し、杭州駅から上海駅に列車で転進を始めました。このころには兵たちも片言の支那語で語らい微笑ましいものがありました。新駐屯地は上海南市の裁判所跡でした。

 困ったことは暖を取るための燃料がなく、連絡将校として兵站司令部に行き問い合わせたが、「各隊で調達してもらわないといかん」の返事で、15km先の森林で伐採することになった。幸いトラックがあり伐採班を設け、伐採に出かけトラック山積みの薪を入手した。
 早川少尉が伐採隊のとき敵が銃撃してきて伐採警備隊と交戦になった。薪を取りに行き敵と遭遇し戦闘すると言う日々が続き、
2月頃には内地に帰る噂が広がってきた。

 帰還

 帰還命令が全員に申し渡されると、みんな笑顔が隠し切れない様子で、俄に忙しく荷造りが始まった。

220日現地出発の命令が降り、部隊長室に安置されていた戦友の遺骨を白布に包み、大隊本部・第123中隊の暖列で飯田桟橋に向け火砲を引き出発した。静岡第34連隊はこの飯田橋桟橋の地からトーチカからの十字砲火を受けながら鉄舟による敵前強行上陸を行い、上陸成功した。成功の名誉に連隊長に名が付いた桟橋でした。
 静岡第
34連隊は更に奥地で戦闘しているのに、時代遅れの足手まといの部隊が帰還するのうれしい反面後ろ髪を引かれる思いがしました。桟橋から輸送船に黙々と積み込み大陸を離れた時は感無量のものがあった。

 玄海灘まで来ると、戦友の歌を思い出し「凱旋」でなく「帰還」と言う言葉に少し寂しいののを感じた。 瀬戸内海を通過し神戸港に横付けし、歓迎のうち振る小旗のすっきりしない思いでした。

帰還船から軍用列車に積み替え神戸駅を出発した。いよいよ静岡県に入り浜松駅・静岡駅に停車する頃には兵達も明るく冗談が出てきた。新聞ラジオによる西田部隊の帰還の報にどの駅も小旗でいっぱいだった。沼津をすぎ三島の入った頃、本来の元気を取り戻し戦場やけしたお互いの顔や軍服を見直し喜び合いました。三島駅には連隊から迎えの部隊が来ており、白布に包まれた戦友を先頭に連隊までの沿道は万歳の声とうち振る小旗の感激野中を行軍しました。その日は連隊でぐっすり安眠し、明けて除隊命令がでますた。

 三島野砲連隊で除隊準備

 四日後の「331日一般下士官・兵は除隊」です。早速、返納兵器の手入れを行い軍服・肌着の洗濯をし返納準備にかかりました。兵達は無事帰還と衣服取り寄せの連絡に大騒ぎでした。

しかし、将校は1ヶ月の残務整理があり、出発の時と同じ衣服係りで町の旅館から連隊通勤することになりますた。翌日配達された新聞には西田部隊の四勇士とうたわれ苦笑のかぎりでした。

 出征のとき、三島の洋服屋に将校用軍服を注文し代金も済ませ戦地に送るように頼んだのに、送られて来なかったので洋服屋に立ち寄ったところ「戦地と言っても送付先が不明のため未発送」とのことなんと無責任なことと思いつつ、他の将校はまだ戦塵にまみれた服を着ているのに、真新しい将校服に着替える事が出来た。何が幸いするか分からない。

 3010時、戦死者の遺骨を祭壇に「ささげ銃」の号令で戦没者慰霊祭が連隊でおこなわれた。そして、西田部隊の解隊式が行われ翌31日に兵の除隊であった。

 430日まで三島の野口旅館に宿を決め部隊の残務整理を行い整理も終わり頃に家族を呼び、朝日旅館に移った。30日に西田少佐の挨拶があり別れの宴が行われれ、翌日妻と共に三島を離れた。西田少佐(ニューギニヤで戦死)と杉山少尉(南支那で戦死)とはこれが最後の別れとなった。

 昭和1351日除隊

 第二回目の招集礼状

 「山口くん奥さんから電話だぞ」受話器から家内の震える声で静岡から応召通知の電報が来た事を伝えられた。昭和16725日のことでした。翌26日会社で私の歓送会が行われ、27日家族と共に大阪を発った。入隊は81日三島野戦重砲兵連隊の内、第9部隊で隠密出征でした。

3528部隊・第2大隊「連絡将校」として編入されたが、苦手な馬の番場による野戦重砲隊でした。連絡将校が馬にも乗れないのではと思い、戦場に出るまでに乗馬訓練をすることにしました。軍服はズタズタに破れ落馬で身体には数カ所の傷などの代償で曲がりなりにも乗馬と言える状態に仕上げる事ができた。第9部隊の向かいに機械化野戦重砲の第10部隊に同輩の佐藤・清水中尉が中隊長として勤務しており、旧交をあたためました。 将校は旅館を宿舎として当番兵が引いて来る馬で乗馬通勤をしてました。
 生きて帰ることは考えられないので、出発前日、妻と示し合わせ、子供の進と和子を朝日旅館につれて来させました。久しぶりにただはしゃぐ子、涙ぐむ妻、最後を決意した家族との一晩をすごした。
 出発当日、連隊より迎えの馬に跨り、家内の振る手がいつまでも脳裏に残った。

 軍用列車に兵器・機材を積み込み、中でも馬の積み込みが手こずった。日没を待って兵が乗車し見送りもない三島駅を出発したり、連隊には身体に合う服や靴が無いと言う理由で一回り大きな物を配られたり、それにしてもこの出征にはみんな疑問を持った。
 軍用列車は大阪に直行し大阪の小学校で
1泊した。翌5時軍用列車から輸送船に積み替え指揮を取っていたが胃けいれんが起き船底に寝かされた。
出港してから大連に向けて航行している事を知る。


 満州

 部隊は大連に上陸し奉天に移動し駐屯した。兵の外出も内地と変わらず、ただ大部隊が北上する列車を帽子を振って見送り何かが起こった胸騒ぎがした。部隊名の上に満州と言う冠がつけられ、満州3528部隊となり、今回の出征は関東軍特別演習(関特演)により集められた事を知らされた。

 10月に入り大部隊を満載していた列車が南へ南へと移動開始しているのでした。(関特演)も始まらないのに11月には我ら満州3528部隊に南下命令が降った。内地の留守宅から女児「禮子」の出産の知らせが来た。


 開戦の報

 乗馬訓練に励み、真な子大隊長から乗馬の素質があるとおだてられていた12月8日の昼食時のこと、

将校集会場に集まり「大日本帝国陸海軍部発表・帝国は本朝未明、南太平洋に於いて米・英と戦闘状態に入れり・・・」を耳にした。互いに手を取り方を叩き「我が意を得たり」「ヤッタゾ」「俺たちはいつ連れていかれるのだろう」将校達ははしゃぎ心であった。 満州に大部隊を結集し対ソ連戦を牽制し南方の諸国の独立と資源取得を計る、ABCD経済包囲網崩しの軍の方針だった。

 満州3528部隊では15糎瑠弾砲の対ソ警戒演習が更に厳しくなった。

 内地派遣

 昭和17年春のころ、突然千葉県の四街道砲兵学校に毒ガス教育のため一ヶ月派遣を命じられた。

 内地では総力戦の様相もようやく濃くなり、戦傷者の療養所も各所に建てられ支那事変は大東亜戦争と改められていた。 満鉄を乗り継いで釜山から下関に渡り、大阪住吉に住む妻子の顔を見てから、毒ガス教育に向かった。 米英の毒瓦斯使用に備えるもので少尉中尉クラスを約60名を各部隊かれ集め教育した。練兵場に出て赤瓦斯(窒息性)緑瓦斯(くしゃみ性)或いはイペリット黄瓦斯の対瓦斯体験訓練など厳しい教育を一ヶ月行い。同じ教育を受けた仲間たちと「戦場で会おう」と別れた。

 部隊に帰る途中、静岡に立ち寄たが、老母が涙で迎えてくれ別れも断腸の思いであった。大阪住吉に立ち寄り、最後になるかもしれない妻と子ども(進・和子・禮子)をつれ白浜・串本二泊旅行を連隊にもどった。昭和17325日であった。

 転属命令

 人の運命は、紙一重と言うか、工業・機械科卒である事から満州3528部隊野戦重砲兵科から牡丹江省ダイトシセンの第16野戦自動車廠・満州2638部隊へ単身転属となった。 3528部隊は南方に進出し同僚の消息さえ分からなくなった。「輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く」と言われ兵隊としては疎まれていたが、牡丹江駅に着くと部隊より田中兵長の運転する高級車がで向かいに来ていた、砲兵に居ては乗れない車でした。満州2638部隊は東京第1師団により編成され、武器弾薬の補給部隊であった。

 全満州から集められた満州国供出の満人が日々1000人が入れ替わり立ち替わり、部隊の裏山の洞窟を掘り倉庫にした。部隊では軍属の女子事務員を雇い、軍隊とはほど遠い柔弱に輪を掛ける状態にあった。 満州2638部隊は山下大将の第5軍に編入替えされた。

 将校の休日

 昭和175月ころから、日本軍もマレーについでジャバ・スマトラに進軍し、「空の神兵パレンバンに降る」など進出はめざましかった。弟の鐘造さんも静岡歩兵第34連隊に属し香港からインド支那に進出した。昭和188月ころになるとアッツ島玉砕・ガダルカナル撤退・山本司令官の戦死し、戦局も好ましく無い状態だが、関東軍では、在籍3年以上の将校は1ヶ月の休暇が与えられた。それぞれ満州で鋭気を養う者や内地へ帰還するものなど思い思いであった。昭和18年8月部隊長から休暇許可が出、大阪・住吉に帰宅することにした。 このころは内地では食糧事情は悪くなっていた、妻に鼻下の髭を笑われそり落とし、幼稚園の息子(進)を連れて静岡の老母に逢いにいった。一年前と異なり床に伏していたが、涙を流して喜んでくれた。

 老黒山の出張所に

 10月ともなると雪深くなるころ、国境に近い東寧に支廠をそして老黒山・河沿・城構子に・満州第2638部隊の出張所がおかれており、老黒山の出張所を命じられた。 老黒山の出張所は岡安中尉が所長で将校3名と兵員220~230名と独立警備隊中隊(山田中尉)約300名の部隊であり、岡安所長の後任であった。約500人を初めて指揮することになった。 

 昭和181月元旦の事で酒に酔い水野曹長が抜刀して暴れ廻っていると当番兵が駆け込んできた。

 二人で裏山に行き、寒い満天の星の下で懇々と不心得を語りあい、それ以後水野曹長の態度が一変した。 傲慢な池畑曹長・狡猾な斉藤曹長など規律を乱す者を誠意を持って話し合い忠実な部下となした。

 警備中隊長の山田中尉が「対ソ連との開戦準備のため警備縮小を出張所やまぐち隊でやってくれ」と言われ、「補給廠としては警備隊が全うせぬなら大切な物資は自隊で警備する、帰隊されたし」と売り言葉に買い言葉で警備隊と険悪な状態になり。後日、警備大隊長鬼頭少佐に呼び出され、警備隊の将校が鬼頭少佐を含め5~6人円陣で待ち構えている警備隊将校室に一人呼び出された。

 鬼頭少佐は、戦闘教育と戦力充実のため警備兵力の削減の了解を求めてきた。「期隊は今更開戦準備を主張するが、吾々は第一線部隊の戦力充実の最早開戦中である、もし物資が灰燼となり支障があれば責任は重大である。」「警備の強化こそあれ、削減など納得出来ない」と述べた。警備隊の将校達は、「何おっ」と息巻いたが、さすがの鬼頭少佐は真意を了解され即刻警備を戻してくれた。

 国境東寧支廠長に

 昭和181229日 東寧支廠長前任の赤沢大尉が北満の某部隊に転属となり、その後任に決まった。老黒山出張所は後任の武田中尉に申し送りし新年から支工廠長となった。

 さすが、東寧支廠は、「移動修理隊」の一ヶ中隊と東寧支廠本隊を管轄とし、外に歩兵警備隊一ヶ中隊で構成されていた。将校との交流を大切にし訓話・訓辞を頻繁におこなった。 昭和19331日本廠の松本部隊長が大佐に進級し、第5方面軍付きに転属し、ソンシュから小川少佐が第2638部隊長として着任した。 ある日、特務機関の中村中尉が国境偵察に誘ってくれ、物見遊山で部下の大滝少尉を伴い国境警備隊のトーチカの間を縫いながら30分程国境最前線まで車を走らせた。半洞窟の兵舎で洗濯物も兵舎内に干す気の使いようであった。中村中尉の指示のもと満人服に着替え国境の小川まで降りていき、散開し渡川しほど近い塚に登った。双眼鏡でのぞくと堅固な陣地がズラーリとならび機関銃が横一線に散兵壕が敷かれていた。装備の違いを感じました。敵が出て来ないうちに引き上げ無事国境偵察を終えた。

 第2638部隊との別れ

 戦況は逼迫し、関東軍からも南方への増強が計られた。昭和196月ころ「ろ号」演習として、満州各部隊から選抜将兵が繰り出され、第2683部隊からも2~300名が引き抜かれ東寧駅を行き先も分からず出発した。更に8月の末に「い号」演習出動命令があり、本廠から「身体虚弱者か動作緩慢な者を選出」と条件がきたので、激戦の南方増援にそんな兵を送って良いのか再三問い合わせ,余りにも不合理と考えた私は、独断で中ぐらいの者を選んだ。いよいよ出発の9月中旬に寺田大尉・私(山口中尉)・青木・仲井・三井の3少尉が「い号」演習出動に出動命令がでた。

 明らかに、2638部隊から口やかましい改革派の追い出しであったが、ここにも運命の分かれ道があった。 米英に対して我が国は無条件降伏の直前で、ソ連は日ソ不可侵条約を無視し、戦車隊を先頭に満州侵略した。そのため在満州第一線は破られ、略奪・虐殺・捕虜(シベリヤ連行)などで倒れたものが多い。国境を後に二日後、牡丹江駅に到着したときは、途中停車中する毎に他部隊が増結され5~60輌の長い列車になっていた。早速第5方面軍に連絡を取ったところ、旧部隊長の松本大佐の桜兵団自動車廠として前進命令を受けた。 先着していた大部隊と合流し再び軍用列車で西進し、やがて東京城駅に到着し大部隊は二区分され吾々は西に進み、青木少尉たちは南下した。

 後日知った所だが、南下した部隊は沖縄への援助部隊で、消息不明でありおそらく玉砕したと思われる。 吾々は支那派遣軍の援軍として桂林・打通作戦に参加する新兵団である事をしらされる。

 

  桜兵団の補給部隊揚子江の渡河

  桜兵団の軍直属部隊 桜・野戦自動車廠の補給部長に任命されていた私は、部隊の前進中は先遣隊とした下士官3名兵5名と共に南京に先行した。 この時期になると、南方派遣軍の補給は、海上輸送では敵潜水艦や航空部隊の餌食になり、武器弾薬の補給が困難になり朝鮮−満州−支那−仏印−マレーの陸補給ルートの樹立が急がれた。

 南京までは、鉄道輸送が可能であったが、南下するに従い敵の空襲も多くなり揚子江渡河より鉄道では困難であった。南京停泊所司令部まで先行し、渡河準備が終わり本隊の先頭と松本部隊長が到着した。

 空襲を避け夜間を利用して第1梯団(岸田大尉)出発と言うとき、第3梯団(寺田大尉)と先遣誘導隊の交代を命じられ第3梯団長(山口中尉)を努めることになった。ちなみに第2梯団(時田大尉)でした。 先遣隊が出発したあと、南京停泊所司令部は敵の空襲が激しくなり、降雨か曇天でなければ出港しない強行な方針をだしたため、半月がかりで第12梯団が出発し、その後10日遅れで第3梯団が雨の中を敵機の目を盗んで出発した。航行途中も船体を傾けた沈みかけてる船や被爆して焼けただれてる船を散見した。行方不明4~500名と聞かされた。


 漢口到着

 約一週間の隠れながらの前進で、ようやく漢口に到着した。ここからは自前の自動車で桂林までいけばいいのだが、連日の雨で道路状況は不良で計画通りに行かず、第12梯団がまだ漢口で待機中であった。いよいよ雨季に入り道路は泥沼で晴れれば敵機の空襲、夕暮れと早朝に集団体操や武器の手入れを行う日々が続き、肌寒い10月頃になりようやく第2梯団が出発し続いて第3梯団も出発した。

 新たに作られた山頂軍用道路を前進したが、急坂では兵員を降ろして車輌牽引の前進で、岳陽に近づくと敵の空襲が激しくなった。トラックは昼間は隠し夜前進するようにした、第1梯団の移動修理隊一ヶ中隊(トラック20数輌)および兵員半数が爆撃と機銃掃射の餌食になった。

 吾々は益々警戒を厳重にして炊飯の煙やトラックに隠蔽に注意し、神に無事を祈りながら岳陽郊外の集結地に着いたのは10月終わりの頃でした。集結地ではトラックはやや離れたところに偽装し分散して、丘陵に横穴を掘って起居で暖をとるため地下に溝をほりオンドル式にした。そのため敵機とゲリラがでる山に薪集めは特に警戒が必要でした。そのころ自分も疲労のため肺炎にかかり養生が必要とのことであった。やがて、11月に入ると偵察に出した兵が前進道路も若干回復の報告があり、夕闇を待って前進命令をだした。吾が第3梯団が山から谷に降りる途中1輌のトラックが転倒してしまい引き起こし牽引に時間がかかり太陽が登り始めた、私は先頭車で気をもみながら疾走し車輌に隠蔽場所をさがした。遅れてくる梯団を誘導して全車を隠し終えた頃に敵機の爆音が聞こえたときは九死に一生を得た心持ちだった。翌夕方前進中の歩兵小隊に追いつき前進方向が同一なので分散便乗させ前進した。夜明け近くに小さな部落を見つけ隠れることにした。敵のゲリラの襲撃をうけたが便乗させた歩兵小隊が活躍し敵は退散した。

 易俗河支廠長

 12月に入った頃、易俗河支廠に到着し、自動貨車を支廠の森林に分散隠蔽し兵達は熟睡した。

3梯団の半数が易俗河支廠勤務で支廠長が私、残り半分は衡陽本廠勤務で更に穂積中尉が指揮して自動車行軍をしなくてはならなかった。 呂兵団は桂林攻略後南支那を香港に向けて前進するため桂林に集結命令が出ていた。呂兵団易俗河支廠長・鈴木中尉と桜兵団の易俗河支廠長との事務引継のため出向いた、鈴木中尉は引継を待っていたようで2、3時間終わると机椅子めぼしい物は自動車に積んでいってしまった。穂積梯団も休息をとり元気に出発したが、2,30分程前進したとき、夕空の晴れ間を帰るP51戦闘機、数機に見つかり銃撃され、負傷兵と損傷車輌を引きずって戻ってきた。穂積梯団は二三日手当をして曇り空をみて再出発した。

 宣撫工作

 部落民の一番困難としている医薬品を与えたり、部落を訪れ親交を温め日本軍に協力させるものであるが、敵のゲリラも活発に2、3人の兵なら部落民に変装して騙し討ちにされることが再三あった。

 食塩は貴重品で岩塩一握りで米三升、肉なら一斤、に相当した。製塩業者に食塩を狙う悪人から守る代わりに米を部隊に供給する交渉が成立し武装兵を警備にだしりしたがトラック隊を襲うゲリラが出始め警備の歩兵大隊が討伐を理由に食料調達をはじめた、しかし食料を背負って帰る不自由な兵隊をゲリラが襲うイタチごっこと成ったため、警備隊と相談し帰りはトラックを出すことになったが、今度は敵機というやっかいなものが待っていた。

 鬼が渕

 トラック2輌に武装兵6名を分乗させ雨天曇天のなかゲルラや敵機に遭遇せずに、鬼が渕も南下中の通信中隊に同行してもらい無事、衡陽本廠に向かった。部隊長に面接し、大尉に進級したこと伝達され、状況報告をし二,三日滞在し敵から分捕った小銃300丁と弾丸及び金品食料を頂いて帰路についた。

鬼が渕は渓流にそい絶壁の山裾がのびた500m程の通過部隊を狙うのに絶好な地形でゲリラが出没する、少人数で通過するには危ない場所なので、他通過部隊を待ち同行することにしている。兵156人の車輌が3台が来たので同行したが、エンジンが故障し置き去りとなった、懐中電灯を出して修理を手伝っていると、ゲリラの使う赤々とした信号弾が撃ち上がった。「どうだ直ったか」やっと直り終えた車に乗車し。出発した崖の上には黒い影が4つ5つ動いていた。危機一髪で難所を通過し帰りつくと、燃料集積地の二カ所が敵機の銃撃をうけ一名戦死一名重傷三名軽、傷連絡所は破壊されていた。

自分の運の強さに驚いている。

 長沙支廠長(昭和202月)

 長沙は出張所で奥野中尉が所長としていたが、桜兵団を以して長沙に兵站基地を設ける方面軍の方針変更に伴い他の出張所が支廠に変更した。易俗河支廠長と勤務交代となり、長沙から奥野中尉に随行して来た兵2名と長沙に向かった。途中敵機の銃撃を受けながらもかろうじて長沙支廠に付き、支廠付きに竹井少尉に長沙支廠の状況報告を受けた。長沙支廠は元支那軍の兵器廠の後でコンクリートの頑丈な洞窟であった、支那軍の捕虜からこの地に蒋介石の宝庫が埋蔵されていると聞き、探したが見つけることが出来なかった。後日談ではあるが支那軍が宝庫を掘り起こしたと聞いた。

 当初計画の陸路の南方軍補給ルートは敵の優勢に伴い変更し本土周辺に軍隊を集結することになった。朝鮮派遣軍は本土に、関東軍は朝鮮に、支那派遣軍を満州に南方軍が支那を通過するための大規模な兵站基地を設け、南支・中支 派遣軍の通過地点で重大な任務であった。

 燃料ガソリンを敵の爆撃やゲリラから守るために突貫工事で陣地を構築したが、食糧事情の悪化で兵隊の体力が低下してきた。雀や蛙をとり付け焼きにして食べるが美味かった。

 ガソリンの代用でチャンチューで作ったアルコールを調達するため軍票1億円でチャンチューの材料(米や大豆等)を買い集め燃料増産と食料として使用した。

 6月始めになると部隊の前を南下する部隊が通過し補給や修理作業が忙しくなり、7月には本廠から部隊長が到着、長沙支廠が内容的に本廠になっていた。

終戦

 623日沖縄終戦・89日ソ連軍満州へ侵入。このころ敵機が飛来しても空襲はなく、ゲリラの襲撃もなくなり、支那軍が長沙周辺に集まり始め歩兵部隊との小競り合いが頻繁に始まった。

 浅野軍曹以下24名が洞窟地帯に出発したが、蜂の巣状態の弾痕をあび収容された。

 815日正午部無線隊から無線連絡があり、稲少尉を派遣した。帰隊した少尉から我が国の無条件降伏の報告があり、部隊長は「馬鹿を言うな。世迷い言もいい加減にせい。長沙旅団を差し置いて一無線隊が各隊の連絡将校を集めるのがけしからん」と腹を立てたが、無線隊は玉音を傍受した。

 16日長沙旅団司令部に密使が来て「武装解除して、降伏すべし」の勧告に来たが、池上旅団長は「降伏させたくば攻撃してこい」密使を追い返し、厳重な警戒と出撃準備を整えた。

18日連絡将校の稲少尉が、旅団司令部から命令受領し戻ってきた。部隊長の顔からサーと血の気が失せ「帯刀 起立」と言った。将校全員が食卓前に起立すると静かに命令書を読み上げた。

「我が国がポッタム条約により無条件降伏した事。陛下から国民にそれが伝えられた事。祖国の再建は吾々の双肩に掛かっている事。軽挙妄動を慎む事」大略このような事を読み終えるとガクッと椅子に身を落とした。将校は泣く者、唖然とする者、怒る者さまざまに生涯忘れられない痛恨事であった。

 始めは匪賊になって戦い玉砕しようと決心したが、勝手なものでもしかしたら内地に帰ることが出来るかもしれないと分かると軽挙妄動を慎むことだと考えるようになった。

威兵団岳州野戦自動車支廠

 8月末、命令が出た「先遣隊として、威兵団岳州野戦自動車支廠の業務を引きすぐべし」、トラック20輌と約300名の兵を引き連れて岳州に向けて転進した。部隊長から「敵と遭遇しても攻撃に無い限り、不必要な戦闘をしないように」と警告された。

途中、久保一等兵が盲腸炎になり、次の兵站病院まで三日間手当が出来ず走り通した。兵站病院でそく手術すたが、後日化膿のためかえらぬ人となった。

 威兵団岳州野戦自動車支廠に到着し、威兵団岳州支廠長と引継ぎを終えた。

威兵団岳州支廠員は船便で上海に向けて出発した。奥から戻ってくる威兵団の自動車・戦車を受領集結が任務で10月始めごろに「桜兵団は徒歩または船舶で上海に行き、米軍の提供する船舶で内地に帰る。

武器は支那側に譲渡し、生活必需品のみ携行を許される」情報が入ってきた。

 慌てて外套、長靴、双眼鏡、拳銃などを売って卵など栄養食を買った。

ある夕方、引継時に威軍の旅団参謀佐藤大尉と親しく燃料置き場の部屋に居るとき、突然佐藤大尉に司令部より伝令か来て「105日支那軍が航路到着し、早急に貨物廠から受け渡し開始することが決まった」との事で、まだ奥地にから戻る部隊の為に食糧・衣服の補給が出来なくなり、駐屯部隊の食糧にも困る。困り果てた佐藤大尉に「自動車廠はいつ支那に渡すのか」と訪ねたら「まだ先だ、慌てるな」と沈みこみ「それなら自動車廠で貨物廠代理をしよう」と言ったら大喜びし、翌朝5時トラック10輌で貨物廠から物資半数を自動車廠の洞窟に輸送した。支那軍への受け渡しは、物資の貨物廠の次が兵器廠次が補給廠・自動車廠の順で受け渡しが始まり、自動車廠と貨物廠の業務を遂行し、戻る部隊に食糧衣類を渡す事が出来た。兵器廠の受け渡し順番がきたころ、旅団から兵器返却命令がで兵隊は丸腰になり、支那は中国と呼称を改め通達が出た。

敗残兵襲われる

 威兵団の某隊が衰弱して隊列が漢口市街を港に抜かって行進して居るとき、後尾で遅れがちな2~3人の兵を中国民衆の略奪が始まり、かかる事を心配して戻った小隊長がこれを分け様と中に入ったが思うようにならない。将校は私物であるがゆえ許された軍刀をもっていたため、中国略奪民と兵を分けるつもりで抜いた。しかし折り悪く通りかかた米兵に、日本将校が乱心せりと射殺されてしまった。

自動車廠の受け渡し

いよいよ自動車廠の受け渡し日取りの通知がきた。旅団司令部の佐藤大尉に貨物廠の処置について相談した。佐藤大尉は「貨物廠の物資を隠すあてもなし、残りの物資は処分してくれ、私も上海に出発することになった」と言うのである。このころ中国側には「日本官兵管理所」が設けられ日本軍の保護管理の機関が作られ威兵団の司令部も立ち退きされ天幕の仮住居に移っていた。

「物資の残りは中国側にむざむざ渡すことはない、山口隊で使う丈つかってやれ」と私は明日が自動車廠の譲渡と言う前の日を選び、岳州山麓の山口隊露営予定地に自動車で塩・綿布・マッチ・糧秣・缶詰

などを輸送した。翌日、自動車廠を中国軍中佐に申し送りし、引き出物として綿布・マッチ・糧秣・缶詰を若干渡し、自動車廠勤務を終えた。

行軍準備

1個大隊程の兵員を無事に内地へ送り届けるのが残された仕事であるが、膨大な物資を歩行行軍中に運び続けていくかが問題であった。自動車シートで作った幕舎で「物資の1/2は中国住民に競売して紙幣に替え、残りの1/4を兵員に公平に分与し、他の1/4を部隊としての携行品とすることを決めた。

山口隊露営地に物資を運んだ最後のトラック1輌残っており、中国軍に隠して処分しないと問題になるため、村尾主計少尉に「携行ガソリン等と貨物廠の物資を遠くの部落で競売し、札束を経理室に納め、別方面に故障車に見せかけてトラックを捨てて徒歩で帰隊」を命じた。経理室には札束の詰まった柳行李が5~6個つまれ、翌日は物資を兵員に分与し行軍出来る体勢は整った。

数日後、官兵管理所から「故障車が1台見つかったが心当たりはないか」との問い合わせに知れぬ存ぜぬで通し事無く済んだが、中国人が部隊の前に群がり、何処で聞いたか塩・綿布・マッチ・糧秣・缶詰

ガソリン等を売れとひしめきあった。特にマッチは中国人にとって貴重品でした。部隊で売買することしないが、分与された兵員たちが一部をお金に換え、全員のポケットも札束で膨れ行動も楽になった。

地方軍に捕われる

 私は連日の疲れと風邪のための倦怠感で幕舎の中の床に伏していた時だった、この頃中国軍兵が時々現れて誰かの毛布を現金と引き替えにもっていってしう事件が頻繁におこった。今回は塩崎曹長が400元で毛布を取られたとのこと、私は中国兵を呼び止め「吾々は蒋介石から毛布・衣類の携行は許されている強奪は不法である400元変換するから置いていくように」言いその場はすんだが、15分程して中国大尉と1個分隊程の武装中国兵が「蒋介石が何言おうが部隊長の命令で毛布を集めているが、咎める者は部隊長が裁くから同行せよ」と来た。私は「貴官の部隊長の裁きを受ける道理が無い、管理所(中国軍)へ言って貴官が説明すれば良かろう」、中国大尉「武力でも連れて行く」と言うのである。折から事情を聞いて来た山口隊の兵達が連れて行かせまいと私を取り囲み、それを中国兵が銃を構えた。ヤバイこれでは死人が出るかも知れないと「一寸待て、一緒に行こう。みんなも手を引け」と覚悟を決めた。広田中尉に「連行先を突き止める事。岳州管理所に報告し援助の手配」を指示し、ゆっくり外套を覆い彼らに同行した。中国大尉は鞍もないチャン馬(ロバの一種)に跨り岳州とは反対方向に行こうとしていた。彼らの服装が不揃いで何気なくせわしげな態度で、正規中国軍ではなく地方軍であった。

中国大尉の尋問

尾行しているはずの部下達が居るか、何気なく後ろを向いても見えないので「うまく尾行している」と思い、三叉路の時は出もしない小便ゆっくり尾行者に知らせるようにした。一山越えて盆地の一軒だけの支那屋敷に付き、運ばれて来た茶を一気にのみ、中国大尉が筆談による尋問が始まった。

「三ヶ月前中国兵に非道したか」「自動車廠だから戦闘してない、お前の行為の方が不当である」

「部下は汝を尊敬しているか」「先刻見た通り説明不要」「汝の裁きは部隊長がする、今日はここで泊まる、本部に伝令を出した暫く待て」と筆談がすすみチャンチューと盃を持ってきた。

「妻子在処」「有る」「妻子に対する感情如何」「日本は水盃で済ませる」「敗戦感想如何」「戦って敗れたは本望」「中国軍に入籍如何」「お断り」「汝のため中国軍入籍は利益」「利益有ろうが二君に仕えず、降伏した敵には尚の事」の筆談から私に危害を加えないことが解ったので、反対にこちらから質問した。

中国大尉は岳州の中学校出のこのへんのインテリでこの辺の地理は詳しいが地方に出ていない。部隊本部は連隊で西南に数キロにあり、地方軍だが蒋介石の命令下にある。先頃、毛沢東軍と北支で開戦のため前進命令がきて物資を集めている。ことが判った。

助けられた夢

便所に行くにも、監視兵がつき厳重に警戒されている。岳州管理所への連絡はどうしたか、尾行の兵はどうしているのか。表面穏やかなのは、私を抱き込んで北支の戦に使おうと言うのか。

しかし、塩崎軍曹に対する処置や私をかばって囲んだ兵達のことが家族に伝わり「父は最後までやった」と子供達が思ってくれるであろうと。思って満足したらいつの間にか寝入ったのである。

 突然、荒々しい人声がし、銃声一発部屋の警戒兵が倒れ、友滝准尉と数名の部下が助けに来た「隊長殿、無事でしたか」私を見ながら涙を溜めている。「おお、良く来てくれた」倒れた中国兵の銃を取って、准尉達と戸外に飛び出した。竹藪の中を抜け山道に掛け登ろうとしたとき中国軍が銃撃して来た。

廻りの兵が倒れ、奪った銃で応戦しようと引き金を引くが弾が出ない。万事窮す・・・ハッと目が覚め全身汗ぐっしょり、頭がハッキリしてきたら監禁されたままベットに休んでいたのである。

物品の提供を要求と失望

朝朝食が出て、10時を過ぎても中国大尉が来ない、そのうち伝令と通訳を連れて帰ってきた。連隊本部まで行ったのであろう、部隊長の命令書を示した。命令書には毛布20枚、軍靴10組、巻脚絆30組、軍刀5振を当隊に提供せよ。日本大尉殿と書いてあった。最終的には者がほしかったのか。提供品は困難であるが隊には金も有るしと思い「何とか集めて見よう」と返事した。まもなく中国兵10名程の監視のもと昨日来た道を戻た。振り向くと銃口はこちらを向けてヒソヒソ話しをしている、後ろから撃たれて谷底に自分の死体がと思うと、矢も立ても居られず通訳に話しかけたすると「もし吾々が幕舎に行ったら、あなたの部下が敵対行為をしないだろうか」と言った。心配してるのはお互いさまだあって。

私も微笑んで「心配ない私がお前達を守ってやろう」と言ってやった。これで値引き交渉も出来るぞなるべく重量物を持たせてやろうと考えた。やがて幕舎に着き、大隊一同が喜びに耐えぬ顔で迎えてくれた。私は村尾少尉に事の次第を話し、全員を集め渡す物はマッチ・ローソク・綿布各一箱とガソリンはドラム缶1缶を用意させた。中国兵はこれら重い品物を担ぎドラム缶をガラガラころがしながら帰っていった。私が拉致されてから、下士官と兵が数名で尾行したが夕闇で見失い帰隊しており、官兵管理所に行った准尉達も、管理所長が不在と相手にしてもらえなかったとの事。後を託した広田中尉以下士官達部下に期待していた私の馬鹿が身にしみた。事の起こりは部下の毛布一枚の事であったはず。最早軍隊でも無く、命令の順法性も責任感も忘れた帰還者の集合であった。私はかねてから、内地での団結を考え、密かに本籍住所を記した名簿を作成しかけており、各人に配布する考えでいたが、腹が立つより哀れと悲しさ淋しさから未完成の名簿を破いて捨てたのである。

軍刀よ何処に

 中国地方軍に拉致されている間に、威兵団に代わり桜兵団司令部の命令で、ここの第一集結地は東方数キロの山腹にある第二集結地移動の指示が出ていた。このころ将校や下士官で私物の軍刀を所持していたが、中国側より軍刀を内地に持参する申請を出すように要求があり、軍刀に所属・官・氏名を記入した白布をつけ提出するように指示された。将校も丸腰になってしまった。

最後の拭い手入れを施した愛刀は、中国兵のトラックに山積みされ運ばれていったが、しかし数日後小雨降る日のこと軍刀を返却するから取りに来いというのである。急の知らせに取る物も取らず数キロ離れた返却所まででむいたが、大切な軍刀が雨の広場に山積みに放置されていた。中には名刀もあるのに文句も言えずただ自分の物を選び出し照合して持ち帰った。

第三集結地への移動

暫く時がたち今度は十数キロ離れた第三集結地への移動命令が出た。吾が山口隊には徒歩で背負い切れない物資があり運搬方法を考えた。各中隊を三班に分け、1班が運搬2班が出発地の物資監視3班が目的地の物資監視を行い方法で各班交代に進む方法で、途中遅くまで運搬作業をしていると土民に襲われることもあり、早朝から始め夕方までかかた。他の部隊は目的地に着いたら先ず住居を造るため付近の木の枝を切り草を刈り小屋を造る時間がかかるが、山口隊は自動車シートと金があるから、今回は丸竹を買い込みアーチ型の幕舎を作るのに30分とはかからず、結局落ち着くのは一番早かった。

他の部隊は草屋式のため山の麓に陣取り、吾々は幕舎式であり、川に近い平地に陣取りをした。飲料水炊飯は勿論、洗濯やドラム缶入浴やシートをほぐして糸を作り、縁のワイヤーで針を作り草むらの蜘蛛が小魚の餌となり釣り楽しむことが出来た。釣った魚は中国人から買った油で唐揚げしたものが美味かった。

第三集結地の娯楽

そのうち軟式野球ボールを手に入れた兵がおり、川に打ち込んだらホームランなどと、中隊対抗・幕舎対抗・兵対幹部など野球を楽しむ兵は子供のようであった。そこ頃煙草など勿論はく、中国人から買うのであるが、良い物は煙草の葉で草などを混ぜた物や蓮に葉の偽物まで出てくる始末、これでも嗜好品として役立ったが煙草が紙から抜け落ちる粗悪品であった。警備隊森田少尉は囲碁の腕前は田舎初段で指導を受け、夕方は碁石替わりの厚紙が見えにくく成るまで広田中尉と石の並べっこをして時間をつぶした。

集結地の移動

昭和2012月中国軍による人員調査が行われる府県別人名表を提出するように桜兵団から通達があり、兵達は「いよいよ帰れるぞ」と生気が蘇った。調査は20kmも離れた所で要領を得ないもので、朝から出かけ日没に戻る一日がかりで人数検査のみ、それでも兵達は「一月末だ」「いや二月だ」と喜びを隠せないようすであった。吾々は、経理室に保管している札束を無駄にしてはつまらない、帰国するまで兵達の体力をつけないと行軍に差し支えると思い、村尾主計少尉に献立に肉や油を多くとらせた。
兵達はポケットマネーで酒や肴を買い込み散在が始まった。他の部隊は炊事用の燃料にも事欠き困窮していた。他部隊には申し訳ない次第だった。
一月末頃、突然第四集結地への移動命令が出た。帰国の移動とばかり不要な物は捨てる様にして、幕舎の前の小川を下り湖沼に出、反対側が新集結地であった。

軍刀取り上げ

他の部隊は小川を渡り湖沼を迂回する移動だが、吾が隊は10隻の渡し船を雇いのんびりと第四集結地への移動した。何か知らぬ予感がし他部隊と同様の自活に努めた。そしてわずか2週間程で又、第五集結地への移動命令があった。小さな湖に面した山地で一部が岬として突き出ており裏の丘を越えると中国人の部落がある第五集結地では、到着直前に早くも物取りの被害を受けた。今回は各隊の周囲に小竹による柵を設け出入り口に棒を持たせ衛兵を立たせた。この集結地には工兵隊や歩兵大隊34部隊が向かいの山腹にそれぞれ集結していた。吾々を統率する旅団司令部は10km程離れた所に駐屯しており連絡が付きにくく孤立状態で昭和21年を迎えた頃、司令部から中国軍に軍刀を提出するように指示があった。今回は「内地持ち帰り申請書」を本人持参出頭のことで、司令部まで徒歩で行くと中国軍少佐と二個分隊程の中国兵が軍刀を集めトラックに山積みにして何も申し渡しもせず運び去ってしまった。
それから、刃物一つ持つ事は許されなかった。日本軍人に対する中国人の悪化が増大し、白昼正々堂々幕舎に入り兵達の物を盗んだりし対抗手段がとれないままだった。

土葬の山

食糧事情も次第に悪化し、各部隊に栄養不良者が出始めた。空腹の為に雑草を口にする、中国奥地で衛生環境が悪く、工兵隊で赤痢が発生し志望者がでた。医薬品が無いため手当も出来ず軍医の診断だけ死んで逝く悲惨そのものですた。病死者を火葬する燃料もなく野営地の裏山に土葬したのでした。
ところが、「土葬により先祖よりの山を不浄にした」と言う難癖を中国人につけられ、代償に工兵隊は毛布の他に幾らかの物品をとられたのです。このような脅迫被害が頻繁に起こるのですが武力行使できない。敗戦国の悲しさただ言われるままでした。
かつて、老黒山出張所で体験した好例にならい、部落の有力者に贈り物をして親交結び交渉役を作った。

本廠に転任

昭和21年2月頃、松本部隊長の本廠へ招致する、命令伝達が旅団司令部経由できた。本廠はヤット、300キロ先の長沙市より十数キロはなれた山の麓で支那屋敷を借りて居た。取りあえず私は兵一名を連れて旅団司令部を訪れ旅行証明書を作って貰った。丁度岳州までのトラックが間もなく出るとのことで、再びトラック便乗依頼書を貰い、岳州までは無事たどり着いたが、ここから先は司令部で聞いた軽便鉄道によるいどうである。軽便鉄道は駅らしい物は無くトロッコで切符は何処で売ってるのか、何処まで行くのか、何時出発するのか全く不明であった。人だまりに乗車しようとする他の部隊の下士官が2~3人居たので、様子を聞いてみると「切符は持ってないそのまま載ってしまう」と言うので、荷物をいっぱい持った中国人に紛れて乗り込んだ。トロッコは岳州を離れたのだが1〜2キロ行ってはとまるかと思えば、大勢待ち人が居るのに通過してり、停車してりで用便も様子を見ながら敏速にしないと停車時間もまちまちであった。

長沙までの旅

昼頃にある部落に停車すると、手押し車におひつと鍋それに茶碗を乗せて村民が、1杯500元の盛り飯と鮒にテンプラや煮付けを売りに来た。茶碗は洗わず次の人に使い廻すなんともおおざっぱな商売でも、テンプラは美味かった。また、ある部落に着いた時は、何か怒鳴りながら中年の男が私に近づき竹の棒でたたくのである。何か日本軍に恨みを持った者であろう、将校は私一人で竹の棒を避ける事も出来ず打たれるまま敗戦軍の苦杯と歯を食いしばるだけであった。やがて、軽便鉄道が発車して難から逃れる事が出来た。翌日夕刻にやっと、ただ広場の長沙駅に着いた。十数キロ離れた本廠に方角を定めて尋ね着いたのは夜も更けていた。

ポツダム進級

中国人に悪感情を持たせないため私は、口髭を落としていたが、部隊長も自慢の髭を剃り落としていた。
昨年8月に長沙を離れて以来の経過と状況報告し、遅い夕食を済ませよもや話に時をすごした。翌日は時田・石橋・奥野・穂積・三井など各中隊長に逢い旧交を温めた。部隊長が私を招致したのは、終戦と同時に予備役中尉以下全員を、一階級進級させる命令書の受け取りであった。
終戦してから上下の階級的意識が薄らいだ事は否めない事実であった。部隊長は話し相手がほしかったので有ろうか「皆が俺の事を怒りっぽいと言うのだよ、終戦してから随分気をつかてるのだが・・」と愚痴がでた。命令書を持ち帰路再びイヤな思い出を残しつつ、例の軽便鉄道で岳州に戻り、昼間を選び20キロの距離を歩いて帰隊した。

つづく