応仁の乱(学校で教えない歴史)(1467年1月から1477年11月)

室町幕府の弱点は関東制圧の失敗
 ときは、室町時代足利八代将軍義政の時に、相続問題で京都を中心に東西に別れて約十一年間の戦いを言います。 戦いが始まった原因を知るには時代背景を知ることだいじなことです。 足利幕府初代は足利尊氏であり、南朝・北朝の問題を抱えて初代・二代目はいつの世も大変なのです。また、将軍は都(京都)に関東の坂東武者を監視する鎌倉公方(将軍のようで将軍じゃない管領のようで管領じゃない)を置きました。

ガンバル3代目日本国王になる
 幕府を安定させたのが金閣寺を作った(大工じゃなくて)三代目将軍足利義満であり豪華な北山文化を築くのだが、大名の領地や荘園などで室町幕府自体の直轄領は少なく、米に依存する経済基盤は不安定でした。

平安末期からの武士社会の延長と貨幣経済の発展は軌を一にします。それは、戦いによる侍や兵の移動に食糧をいちいち運ぶのと貨幣で現地調達するのでは侍や兵の疲れなどを考えても戦いを有利するこができます。

鎌倉時代には武士が全国移動し、さらに南北朝の戦乱には大量の兵力が移動するため交通網は充実し物的流通も盛んになり、貨幣や為替の信用経済が始まるわけです。

だそくですが、当時の日本は和同開珎から始まりいくつかの貨幣を鋳造しましたが技術が低く、大量のカネを作る事ができなかったのです。

 三代目義満はここにめをつけ、中国(明朝)に勅書を持って爵位授ける册封を受け「日本国王」の金印と明との貿易を許されました。(しめた銭儲けだ、わしは日本国の王様だワハハて感じ)

 明皇帝の臣となる形で屈辱外交とも言えますが、義満は明銭を大量に独占輸入することになり、(日銀と造幣局を独り占めしたようなもの)経済的基盤はゆるぎないものとしました。

身分よりカネが強い時代をつくる
 この財力で金閣寺を作り豪華な北山文化を築いていくわけですが、するとカネ儲けに庶民も血眼になり貴族も武士も町人もカネかね金の世の中になり(今の世に似ている)貧富の差は大きくなり、金貸しが幅を利かせる世の中になって行くのです。身分より金を持った方が有利に立つ下克上の風潮が見えてくるわけです。

 高利貸屋を襲い借金証文を取り返す(馬借一揆など)が起こり、武士や貴族は借金を帳消しにする徳政令を幕府に要望したり、関所を設けて関銭をとるなど。(品物よりも関銭の方が高くつくメチャクチャな貨幣社会でした。)三代将軍義満だけが丸儲けの時代でした。(天皇は幕府があるだけでバカにされているわけです)

金持ちが有徳人として庶民に尊敬され、貴族や武士も金持ちにへつらうようになっていった。

義政が将軍になったわけ
四代目義持は幕府安泰で自分の子(義量)に将軍を継がせるが若死にし、再度将軍職につくが跡継ぎを決めずに他界しました。四代将軍義持の弟で八代将軍義政の親父義教が六代将軍となり、幕府権勢を盛り返しましたが赤松邸で暗殺され(気に入らない人が居たわけで三男だから二男の関係者かも)幕府と将軍の権威を失墜し、義正の兄の義勝が幼少の身で七代将軍になり一〜二年で落馬して死亡します。

わがままな将軍
 そこで、八代目に幼少の義政に将軍の座が回ってくるのですが、政治の中心は三管の筆頭 細川勝元 山名宗全 畠山正長の重臣達の政治になり有力守護大名の統制に失敗し、また八代将軍義政は祖父の義満の話しを聞き育っているので、じいさんに憧れていました。(俺もなりたやじいさんのようにと思っていたのでしょう)

成人しても、政治は嫌いで風流大好きで後に銀閣寺を作り、東山文化と言われる庭などに金掛けてとんでもない応仁の乱の原因を作ったバカ将軍でした。(将軍の立場は北朝鮮のキムジョンイルの様なものバカじゃ困る強すぎても困る) 政治そっちのけで風流ざんまい、高貴な日野のお姫様日野冨子当時一六歳を嫁に貰って跡継ぎ作って将軍やめて隠居したいと思っていた訳でした。時に、日本は不順気候で大飢餓が続き、疫病が流行、地震まで続発して、都の鴨川も餓死者で埋まる悲惨な状態でも将軍義政は無頓着でした。

財テク上手の妻(日野冨子)
 日野冨子に子供ができて世継ぎができて(これで終われば、応仁の乱にはならなかった)喜んだのもつかのま最初の男子が早死にしてしまい、二五歳の冨子に相談もしないで弟の義視を養子にして将軍職を譲る約束をしてしまう。(冨子は怒ります。何よ私に黙って勝手なことをして。)この直後に冨子は懐妊して義尚を生んだのでした。 実の子を跡継ぎにしてよと、冨子が迫る。僧籍にいた弟の義視を無理言って(俺はじいさんの様に日本国王になるから弟よ将軍になれ)頼んだ訳で約束は破れないと義政は突っぱねる。

妻冨子の大反撃
 将軍夫婦の大喧嘩が始まる。この喧嘩が天下を二分する動乱になる。

この時代強いのはお金、冨子は自分の荘園からの収入や将軍の妻と言う立場で役職昇進の賄賂とか訴訟の仲裁などの礼金などを貯め込み有効利用しました。(冨子はしたたかに、高利金貸しをします)

大名巻き込み大騒動
 財力をバックに冨子は実力者で所司代の山名宗全を見方に付け、我が子を将軍にしようとします。

もう坊主に戻れない義視は東の実力者関東管領の細川勝元に応援を求め次期将軍の座を確かなものにしようとしました。この次期に、守護大名家 畠山政長と畠山義就・斯波義敏と斯波義兼の御家相続争いが冨子の野望が呼び水になり、文政二年一月一八日畠山義就が都にいた畠山政長を攻め、調停者無きまま武力衝突へと発展していきます。(応仁の乱は文政二年から始まるのです。三月に応仁元年となる)

都で大戦中も金儲け
 西陣の山名宗全軍約九万から十一万と東陣の細川勝元約十万から十六万の軍勢が京都舞台に大戦をはじめるが、冨子は戦いの最中、金を借りに来れば敵将でも金を貸して悪評をこうむた。戦火は京都を焼け野原にし、地方に飛び火して、十一年も続いた。

冨子はやっぱり守銭奴
 この戦争で、冨子は勝ち、九代将軍には息子の義尚がなることになる。戦争終結に際しても、冨子は敵将の領土の保全を約束する代わり多額の謝礼を取ったり、撤退費用に困る武将に費用を高利で貸し付けるなど、金の力を本当に活用し、戦争の状況まで操りお金の力を思い知らせた日野冨子でした。

 この様な人を守銭奴と言うんでしょうか。応仁の乱は守銭奴のバブルから始まりカネで締めくくった大喧嘩だったのです。 

歴史から学ぶ教訓
  冨子の一人勝ちでしょう、女房には気を付けろ、夫婦喧嘩をするな、女房と話し合え(相談しろ)、
  義視は京都が戦火になるや、逃げ出すわけで、危なくなったらすぐ逃げろ
  カネが天下の世の中で生きて行くにはカネがいる。