特攻計画の推進   

昭和18年3月2日〜3日にかくてアメリカ軍の新戦法(跳飛爆撃)で第一八軍の第五十一師団の主力をラバウルからラエに輸送中の輸送船八隻(全部)と駆逐艦四隻が沈没し、陸軍部隊6900名の内3664名が海に沈んだ。約800名がラエに上陸し、残り2427名がラバウルに逃げ帰ったが武器弾薬を失い作戦行動が出来ない状態であった。

 このころは、戦域が太平洋南東方面に拡大し陸軍機も艦船攻撃が必要になってきた。

元来陸軍の爆弾は、地上攻撃用で人馬殺傷用に爆弾はこわれやすくできていて、艦船の甲板に当たって爆発する前に壊れてしまうため第一線の実戦部隊からは海軍と同じ徹甲爆弾が要求された。しかし艦船の空爆は操縦者の消耗が激しく未熟な操縦者には艦船に当てるのは困難であった。

このときアメリカ軍の攻撃方法が大きな教訓となり、この戦法を研究し始めたのが、陸軍航空審査部竹下福寿少佐で劣性な日本が出来る有効な戦法であると確信した。しかし陸軍航空本部次長川辺虎四郎などが体当たりでなければならぬと特攻を推進していた。

 昭和十九年初期航空特攻戦法の検討が始まる。一挙に多大の生命の犠牲を強要し、敵の戦意を挫折させる最も有効な方法と判断された。参謀本部の作戦課航空班長鹿子島隆中佐・矢作十郎少佐達の立案で特攻計画ができた。当初最も積極的に実現に熱意を示した参謀次長兼務航空総監 後宮大将 は全軍前機特攻といった極端な主張を航空部隊に伝達させ、航空本部教育部長 隅部少将は各航空部隊をまわって宣伝し、陸軍特攻の準備をすることになる。

航空総監部教育課長秋山紋次郎大佐は強行に反対をつづけ「参謀本部の二課(作戦課)が特攻やれとは何事だ。張本人は鹿子島と矢作だ」と言った。 立川の陸軍航空技術審査部員水谷栄三郎大佐が万朶隊富嶽隊の爆装計画の責任者であったが終戦当日手榴弾で自爆した。上司である陸軍第三航空技術研究所 正木博少将は知覧で特攻の出撃機の胴体に潜り込み整備兵に見つかり引きずり降ろされる。「自分の目で体当たり効果を確かめたかった」と言った。航空本部から爆弾の改良方法について具体策を求められ体当たり攻撃の理論化の回答をした。特攻には銃砲は要らぬの考えの人が、責任取って死ぬ気だったのかどうかわからぬが昭和四十八年(76歳)まで生きた。また矢作十郎少佐は航空自衛隊に入り空将まで進み術課教育本部長を勤めた。

岩本大尉は跳飛爆撃の研究演習をしていた陸軍航空審査部竹下少佐に立川で九九双軽の前に信管を付け爆弾を落とせない改造をした特攻機を見た。

 昭和十九年七月大本営で決定した{号作戦準備要網}では陸海軍の攻撃目標は陸軍が輸送船海軍は空母を攻撃するのが望ましいとしながら実際には機動部隊を狙っていた。そのために改装爆撃機を作った。陸軍中央部は精鋭要員と器材で編成した特攻隊で一挙に大戦果を獲得して敵の戦意を挫くことを考え浜松教導飛行師団(旧飛行学校六月24日改編)の重爆特攻(富嶽隊)と鉾田教導飛行師団(旧飛行学校六月24日改編)双軽特攻(万朶隊)を編成した。(要員と器材の差し出しを指示した)レイテ決戦において海軍側が特攻攻撃を開始したため陸軍もあっせた。

    

特攻推進派 特攻反対派
役職と氏名 参謀次長兼務航空総監 後宮大将
陸軍航空本部次長  川辺虎四郎中将航空本部教育部長  隅部少将
第三陸軍航空技術研究所 正木博少将

東京帝国大学建築科   濱田教授
軽爆実施学校校長 藤塚止丈雄 中将
航空総監部教育課長 秋山紋次郎 大佐

陸軍航空審査部 竹下福寿 少佐
教導飛行研究部 福島尚道 航空技術大尉教導飛行研究部 岩本益臣 大尉     
理   由 操縦者の消耗が激しく操縦技術が未熟な者に艦船を沈める事が困難であり、有効なのは体当たりしかない 体当たりは操縦者の生命と飛行機を犠牲にするだけで効果があり得ない。
裏付け理論

爆弾と飛行機を5tの剛体とし人間が操縦するので必中であり、一機一鑑沈めることが出来る。
陸軍の爆弾でも飛行機自体の重力での装甲を貫通できる爆弾ではなく攻撃方法である。

爆弾と飛行機との落下速度が違い、体当たりはコンクリートに生卵をぶつける様なものだ。
飛行機には翼があり爆弾と同じ落下速度にならないし、操縦が困難になる。
代わりの策 体当たりしか策は無い 跳飛爆撃を行い、艦船ようの爆弾を使用する。

昭和一八年秋に第三陸軍航空技術研究所主催の戦技研究会開催し、東京帝国大学 建築科濱田教授・造兵研究 青木保教授・東北帝国大学 抜山四郎教授・鈴木隆教授・九州帝国大学 栖原豊太郎教授 の学者を呼び 正木博少将の体当たり攻撃の理論化を発表した。学者達からの反対の声が上がらないのはなぜ